55歳の挑戦
                        安藤晴美

 55歳の私が県議選に初挑戦し、結果がでたのは2007年4月8日である。
 県議選の投票日であったその日、私は自分の投票を済ませ朝8時過ぎから夜の8時頃まで共産党の事務所で最後の仕事をし、一度自宅に戻り一風呂浴びてから化粧を直し、夫と共に選挙事務所に向かった。運転しながらそわそわ胃を摩り「大丈夫かな」とつぶやいていたのは夫。私は「どういう結果がでようが覚悟はできているから。できるだけのことはやったんだから悔いはない」と夫を勇気づけた。午後10時半頃だっただろうか、事務所に着いたのは。ぎっしりとまではいかないが、一緒に頑張った仲間やスタッフの皆さんたちがすでに集まり、拍手で私達夫婦を出迎えて下さった。自分の車で先に着いていた末の息子の姿もあった。テレビや新聞各社の記者もすでに来ていた。
 選対部長のTさんが、前方一列に並べた椅子の中から私の座る場所を指示して下さった。椅子に腰掛け事務所の様子を眺め始めたその時、私からはよく見えない所に設置された小さなテレビの画面を見ていた人たちが「当確だ」と叫んだ。結果がでるのは11時過ぎだろうと予想していただけに、予想外の早い報道にに本当なのかと信じがたい気持ちだったが、すぐに「うわー」という感動の声に包まれた。となりにいた前県議の三上和子さんや市議の皆さん、夫や四男らともみくちゃになりながら、堅い握手を交わしていると間もなく、誰かが「三位だ。三位だ。三位当選だ。」と叫んだ。又大きな拍手と万歳の声が渦巻いた。
 事務所の皆さんから大きなきれいな花束をプレゼントされ、その大きな花束を胸に取材用のマイクを持ち興奮しながら「政治や暮らしに対する不満の思いが一票一票に結びついた結果だと思います。県政の場でしっかり皆さんの思いを伝えて頑張ります。」と挨拶した。
 その後、事務所に来て下さっていた一人一人に、Kさんが用意してくれていたガーベラの花を、一輪づつ手渡しながら喜びを分かち合った。70歳を越えるNさんと向かい合った時、彼女は「安藤さんよく頑張ったね。」と私を泣きながらしっかり抱擁してくれた。私も、暖かな胸に抱かれながら、これまでの苦労が走馬燈の様に思い出され、初めて感動の涙がどっとあふれてきた。
 津川武一さん以来木村公麿さん、三上和子さんと四〇年間引き継がれてきた、かけがえのない日本共産党の弘前・中津軽郡区からの県議会の議席が守られたことに安堵の気持ちでいっぱいになった。計り知れない大きな仕事をされてきた諸先輩方には到底およばないだろうが、私は私らしく「安藤はるみ」の色を出して精一杯がんばっていこうと思う。私はこの尊い議席を得る為に、計り知れない多くの方たちが、並々ならぬ努力を重ねて得た議席であるということを、決して忘れない。
 選挙に関連する写真やメッセージなどをまとめたアルバムに、2007年3月2日に95歳で亡くなられたSさんが「安藤はるみ」と「船水あきひこ」の字を一生懸命練習した便せんが貼ってある。残念ながらその練習した字を投票用紙に書くことなく亡くなられた。Sさんの娘Tさんは、悲しみを乗り越え「父は娘に貴重な時間をくれていきました」と、献身的に選挙運動に身を投じて下さった。本当に頭が下がる思いだった。
 農民組合員の組合さん親子が何回かチラシまきの手伝いに来て下さった。後から知ったことだが、その方たちは心中未遂事件で起訴された女性のご家族たちであった。とてもつらい出来事を乗り越えて、お父さんと娘さん2人で来て下さっていたのだ。「寛大な判決を求める請願署名」を取り組んでくれた農民組合の方々への感謝の気持ちが、選挙の手伝いへと結びついたようだ。つらさを顔に出さず、ひたむきに頑張って下さったことにあらためて心からお礼をのべたい。本当にありがとう。
 アナウンサーが足りなかったことで、わざわざ五所川原から何度か来て下さったOさん。骨折後やっとギブスがとれたといって選挙カーに乗って下さったSさん。初めてアナウンサーを体験し見る見る上達していった2人のKさん。他、仕事をやりくりしたり、候補者の乗らないつなぎのアナウンサー専門で取りたNさんなどご苦労さまでしたごくろうさまでした。
 パンフレットから始まり政策チラシなど何度も何度も足を引きずりながら配って下さった方々。支持拡大の為に電話がけや訪問で死に物狂いで頑張って下さった方々。6カ所の朝の街頭宣伝に、凍えるほど寒い時から一緒に立って下ったNさん、Kさん、Nさん、Mさん、Eさん、Yさん、Sさん、Kさん、Sさん、Iさんなどなど。そして、いつも明るくきれいな選挙事務所を心がけて、支えて下さったスタッフの皆さん、おいしいごちそうを作って下さった皆さん。初めて選挙事務所長の大役をこなして下さったMさん。
 新旧の交代の選挙で、1万1383票もの票を積み上げることができたのは、こうした色々な人の多くの努力に支えられたからだと心底思う。だからこそ、皆さんの願いにしっかり応え精神誠意がんばらなくてはと、熱い思いが沸々わいてくる。
 私は、今度の選挙で他にも嬉しい出来事がいくつかあった。というのは、地元に戻ってきて働いている4男が何度かチラシまきを手伝ってくれたり、選挙カーにも2回のって手を手伝ってくれたことだ。行く先々の演説で「息子たちを2度と戦争に送り出す様な時代に引き戻してはならない。そのためにも憲法九条をしっかり護ります。」と、息子を前にして演説できたことは、とても喜びだった。
 最終日の最後の演説が事務所前で終わった時、マイクを向けられた四男は「母のまっすぐな姿を見ることが出来てよかった。僕も負けないで頑張りたい」というようなことを堂々と語ってくれた。こんな風に堂々と語れる青年に成長したんだなと頼もしく思えた。
 又、今度の選挙で、たくさんの方々が色々な形で応援して下さり、共に当選を喜んで下さった。その中には、これまで私が相談にのってきた数多くの方々もいらっしゃる。選挙中事務所に「頑張って下さい。家族みんなで応援しています。」と電話してきてくれたというYさん。自分の事、家族の事、、友人の事で私の所に度々都度都度相談に来ていた50代の女性だ。いつのまにか行方がわからなくなっており、どうしているか心配していた一人だった。電話があったことを聞いて元気だったんだなと嬉しかった。それから間もなく選挙カーで市内を回っていた時、ある街角のアパートの小さな窓から懸命に手を振って声援する彼女を発見した。「ここに移ってきていたのか」と元気な姿を見て安心した。
 当選が判った翌日、やはり行方が分からなくなっていた友子さんからの電話がなった。彼女は「具合が悪くてあのアパートには、どうしても住めなくなったの。お世話になっていた安藤さんに連絡もしないで本当に申し訳なく思っています。半年以上部屋から一歩も出られない最悪の状態だったけれど、安藤さんに私の一票をどうしても入れたくて、頑張って投票しました。安藤さんが当選してくれて本当に嬉しいです。どうしてもこのことを伝えたくて」と振り絞るような声で語ってくれた。
 一ヶ月程前、施設に移りましたとの連絡をくれて涙の対面を果たしていたあやのさんとは、劇的な出来事が度重なった。選挙中、近くを宣伝カーで通った時、どうしても一目会いたくて、近くで止めてもらい、たすきをはずして施設の玄関に入っていった。そしたら、彼女も声を聞きつけて、会いたいということで車椅子でエレベーターを使って、やっと降りてきたところだったのだ。玄関で二人ががっちり握手を。その彼女は、私の当選が分かってから、一ヶ月もかけて百個以上の折り紙を重ねて作るフクロウを完成させ、私に届くよう介護士さんに託してくれた。丁度街頭宣伝中そのフクロウを車に積んでいた介護士さんが「安藤さんですか。どうやって渡せばよいか迷っていました。」と偶然通りがかったことを告げ、手渡してくれた。いろいろの人の真心が伝わってきて嬉しかった。目も手も不自由なあやのさんがこれだけの作品を作ることは、並大抵の事ではなかったはずだ。素敵なこの作品は県議会の議員控室に飾り、私を見守ってくれている。
 私を家庭から支えてくれた夫、そして県外に住む長男・次男・三男、一緒に住む四男もそれぞれの友人・知人にたくさん声をかけ、支持を訴えてくれた。大きな力になったと思うし、とても嬉しかった。
 青森県の住民の代表としてこうして仕事が出来ることを誇りに思うのと同時に、皆さんの期待にしっかり応えられるよう頑張っていきたいと思う。五十五歳の挑戦で果たした県議のバッチを胸に質問準備のために、今日も愛車のオレンジカーに乗って県庁に向かう。
 「いってきます」
           
(「弘前民主文学」129、2007年8月15日)