アリランの歌


                                  安藤晴美

 冬子が中学校へ入学したのは1964年東京オリンピックの年であった。年子の姉時子が同じ中学校に在学していたので大きな不安はなかったが、中学生になるという気負いと親しかった友だちと同じクラスになるだろうかという緊張感をもって入学式の朝を迎えた。冬子は石塚家の4人目の末子であった。冬子の両親にとって、子どもの最後の中学校入学で、喜びもひとしおであった。親の喜びに包まれて晴れやかな入学式の朝を迎えるはずであった。しかし、その朝は違っていた。
「お父さん。お父さん。起きて。起きなさいったら。」
と、母のけたたましい声で目が覚めた。

 父は、大手の火災保険会社の電話技術者で、東京駅から徒歩数分の所にある20階建て本社ビルの電話保守業務を任されていた。終戦後、その職に就いて以来20年近く働き続けていた。責任感が強く、仕事も万全で、会社の人たちからは厚い信頼を得ていた。趣味も多彩で 、写真の腕前は抜きん出ていた。コンクールで度々入賞する程であった。幼い頃、家族で遊びに行く時には父のその手にいつもカメラがあった。
 その父は、又お酒が好きであった。晩酌は毎日欠かさなかった。台所に立ち、夕食の支度をする母のそばでニンニクのみそ炒めを作り、それをつまみに母の手料理のできる前から氷と水で割った焼酎を飲み始めていた。そのお酒がきれている時は、いつも冬子を呼んだ。
「冬子。大和田さんに行ってきておくれ」
と、酒代と少しのお駄賃を渡すのであった。 大和田酒店は自宅を出て、たてこんだ住宅街を左折し、なだらかな坂を上ったすぐ右角にあり、子どもの足で5分足らずであった。その道は結構車の往来が激しかった。パック入りの一リットルの焼酎は子どもにとってはとても重く感じ、夏には袋を抱えて坂の途中にある大きなお屋敷の庭に咲く夾竹桃の花を見ながら、もらったお駄賃で買った大きなあめ玉を口いっぱいにほおばりながら坂をおりた。
 酒が入ると、いつもはあまりしゃべらない父が陽気になって、一段と饒舌になった。犬を殺して食べた、という戦地での話、美人だったという自分の母や姉の話、若い頃組合で頑張っていた話などをいつも繰り返し話した。少し酔いがまわると、戦地で覚えたという朝鮮民謡「アリランの歌」を機嫌良く歌い出した。そこからさらに酒が入った時は、今度は父の少年時代自慢の母と姉が結核に罹り、次々と亡くなったことを思い出しては泣くのであった。その後、座椅子に寄りかかり、眠り出す。そんな父であった。
 しかし、冬子が小学5年になった頃、気持ち良く酔った父に母が意見を挟むようになった。父は、その頃から会社を休むようになっていたのだ。母は、父がこうして夜になると元気に酒を飲み始めるのに、朝になると「眠れなかった」と言って病欠願いの電話をさせる父を許せなかったのだ。給料日に父が会社を休むために母がその給料をもらいに出向くこともあった。母のそのつらさ、切なさは陽気に酒に酔う父に向かって爆発した。
「明日は行きなさいよ。わかった。」
 
 母は、九人きょうだい中の最年長であった。尋常小学校を卒業すると福島から上京し、陸軍士官の家で女中をした。勉強したい、という夢を捨てきれず、女中を辞め、看護見習いをしながら、看護学校に通い、准看護婦の資格をとった。二十歳で結婚するまで、N病院の外科の看護婦として働いた。結婚と同時に仕事を辞め、住まいを転々とした後、祖父達の援助を受け東京中野に小さい家を建て、父と共に家庭を築いていった。持ち前の負けん気の強い性格で、四人の子育て、家事、PTA活動などをこなした。
 加えて、冬子たちが小さい時には、近くのガム工場のガムの袋詰めや人形の洋服作りなど、いろいろな内職をした。子どもに寂びしい思いをさせまいと外で働くことをためらっていた母であったが冬子が小学校五年になった頃から知人の勧めでN生命保険会社の外交員になった。内職だけでは四人の子育て、教育費にかかる経費の捻出は難しくなったのだろう。お客さんとの関係、毎月の成績、外交員同士の人間関係など、母が語る話から仕事を続ける苦労を子どもながらに感じた。

「うるせえ。だまってろ。明日はいくから大丈夫だ。」
と、怒鳴り声を上げる元気な父がそこにはいた。冬子は、父の夜の元気さと、朝、布団の中で小太りの身体を丸めて起きてこない父の姿を見るのがとてもつらかった。

 冬子の中学校の入学式の朝もそんな光景の中にあった。母は、末子の冬子が新たな歩みを踏み出すこの喜びの日を明るく迎えたかったに違いない。しかし、この朝も布団にくるまって起きてこない父がいた。その父に向かって、
「どうして、そうなの、お父さんは。」
と、いつにも増して声を荒げたのだ。そして、この時、母は大きな声を出して泣いた。
「もう、我慢できない。今日は、冬子の入学式。子どもがこうして成長しているのに、親のあんたがこんなんじゃ子どもたちに申し訳ないじゃないの。子どもの成長する姿をちゃんと見てちょうだい。会社休むなら、今日の入学式に出て下さいよ。私は行かないから。冬子を連れて入学式に行ってちょうだい。」
 父の布団をこぶしでたたいて母は訴えた。しかし、父はびくともしなかった。冬子は泣きながら母の洋服を引っ張って、
「お母さん、一緒に行って。」
と、懇願した。

 身支度をした母と真新しい制服に身をつつんだ冬子は、泣きはらした目を冷たいタオルでしっかり拭いて玄関を出た。
 中学校までは歩いて十分ほどの距離であったが、母はなるだけ皆の歩かない道を選んだ。母は何もしゃべらなかった。中学校の脇を流れる神田川沿いの細い道の両脇に紫色のスミレの花が可憐に咲いていた。
 
 それから間もなく、父は会社の上司の勧めもあって、母の説得で入院することになった。新宿にあるK病院の精神科であった。うつ病と診断された。冬子は、母と姉の三人で一度だけ病室を訪ねた。花の好きな父のために時子と選んだフリージアとカスミソウの花束を抱えて行った。
冬子たちが病室に入ると、父は病院のベットで窓の方を向いて寝ていた。
「お父さん。時子と冬子が一緒に来ましたよ。」 
母が語りかけた。
「ああ。」
と言ってゆっくりこちら側に身体を向けた。
父の顔は驚くほどやせていた。少し間をおいて
「学校はどうだ。」
と、か細い声で言った。
「うん。がんばってるよ。おねえさんと同じバスケット部に入ったの。」
「そうか。」
父の目はちょっとうつろだったが、子を思う愛情であふれているように見えた。その時冬子は「父は、今自分の病と向き合って頑張っているんだなあ」と、子ども心に迫ってくるものがあった。母は、父に優しかった。
「ちゃんと薬のんでる。」
母は、問いかけながら、きれいに洗った下着とタオルをベッド横の引出しにしまった。
父はそれをゆっくり目で追いながら
「ああ。」 
と返事をした。
冬子は時子と母から受け取った花瓶に花を差し終えると、病室の窓から外を眺めた。間もなく初夏を迎える頃だというのに今日も雨が降っていた。中庭にそびえ立つ大きな緑色のもみじの木が、雨に打たれながら泣いているように見えた。
 
 父のいない石塚家で、仕事で遅くなる母に代わって美術大学に通う兄が冬子たちの夕食の支度をすることが度々あった。
「お兄ちゃん、お父さん大丈夫なのかなあ。」
野菜炒めをする七歳違いの兄に冬子は訊ねた。
「病気なんだから薬を飲んで、ゆっくり休めば良くなるから大丈夫だよ。」
冬子の不安を少しでも軽くしようと兄は言葉を選んだ。
茶碗をテーブルに並べながら冬子はうなずいた。
 
 三ヶ月程して、父は退院した。母は父のその入院を境に父への接し方が大きく変わった。父はしばらく家で休んでいたが、自宅の玄関先の桜の木の葉が赤く色づく頃会社勤めを再開した。
 
 父が歌う「アリランの歌」が、茶の間から又時々聞こえるようになった。冬子は隣の部屋で机に向かい、父の陽気に歌う「アリランの歌」を聞きながら、父も母をも苦しめる病気が再び襲ってこないようにと、宿題のプリントに軽く握ったえんぴつの先をそのリズムに合わせながらとんとんと落とすのであった。
                      (「樹陰=盛岡」、2005年10月1日)