東日本大震災と私
      
 2011年3月11日に起きた東日本大震災は、青森県議会議員をしている私にとっても忘れられない出来事となりました。
 その日は、県議一期目最後の定例県議会が開催中であり、4月1日の県議会議員選挙告示日に向け追い込みの時期でもありました。
 予算特別委員会が開かれておりましたが、団長の諏訪議員が担当となっていましたので、私は弘前での行動が、朝から夜まで目いっぱいの日程が組まれていました。
 午前8時から、市内4ケ所での街頭宣伝。その後の居住地域での訪問活動。午後1時からは「重税反対集会」会場前でマイクを握り、その後集会に参加し連帯の挨拶をしました。午後2時からは市役所に出向き、国民健康保険にかかわる相談者と共に要請を行っていました。二階にある納税課のカウンターを挟んで、滞納している保険料の相談をしていた2時46分のことでした。グラグラとして、市役所の建物全体が大きく揺れ、立っているのもままならず、カウンターにしがみつかなければならないほどの強い地震に襲われたのです。私は、滞納している保険料の毎月の支払い額を決める交渉の大詰めに来ていたときで、揺れていようがここで決めてしまわなくてはという思いで必死でした。方向性が定まり、これで良いというところで、相談者と別れて駐車場に向かいました。
 市役所の出口には職員や市役所を訪れていた人たちが大勢避難していました。その人たちを横目にとにかく次の約束の3時がせまってきていたので急いで車を走らせました。待ち合わせ場所となっていた「はるみ事務所」に着くと、待っていた女性は真っ青な顔をして「すごい揺れで道路が波打って見えたのよ。私酔ったみたいに気分が悪い」と言い、その日の予定を中止しました。
 電気が止まり、テレビもつかない。どこが震源地なのか、規模はどれくらいなのか、知るすべを奪われながらも予定表を見ていました。夜は、美容院でパーマをかける予約をしていましたが、美容院で、髪を洗うお湯がでないので無理だと言われてキャンセルとなりました。
 私は、翌日から住民の皆さんの安否も含め、要望を聞きながらの訪問を始めました。間も無くして、今度の地震がマグニチュード9という巨大地震だったことを知り、街頭宣伝は自粛が必要だろうということで、街頭募金活動に切り替えました。
 「はるみ事務所」前では、地震発生から三日後の朝から募金活動を始めました。すると、向かいのアパートから若い女性が下りてきて横断歩道を渡り、私たちの方に近寄ってきました。私はてっきり「朝早くからうるさい」と苦情を言うために来たのだろうと思い身構えました。しかし、実際は違いました。「私は、宮城県女川出身の弘大の学生です。未だに両親と連絡がとれません。今ある私のお金の一部を救援募金のために出したらいいか、それともこれからのためにとっておいたらいいか分かりません」と財布を持って、放心状態で立ちすくんでいました。
 「何がおきるか分からないから、大切にとっておいた方が良いと思うよ」と募金をお断りし、励ましの言葉をかけました。
 訪問活動の中では「宮城に住むうちの息子は、やっとの思いで津波から逃れ命拾いした」とか「福島からわが家に子どもを連れて避難してきている」と言う方が大変多く、弘前が津波に襲われ、原発事故に遭ったわけではなかったのですが、その影響は青森県に住む私たちにとっても非常に大きいことがわかりました。
 その後、このような実情を市民の皆さんに伝えながら、募金活動を進めていきました。その輪は次第に広がっていき、旅行の予定を取りやめたからと言って、費用の10万円持ってきて下さった方や、妻が宮城県出身で他人事でないと妻と自分の分と、それぞれ1万円ずつ寄せてくれた男性、友人同士で3万円ずつ持ってきてくれた女性など、多額の募金も相次ぎました。
  募金箱を持っての街頭での訴えでも、通りがかりの高校生や通勤途中の方々が次々に協力してくれました。宣伝カーで、農村地域を回りながら同じような呼びかけをしていたときのことです。春休みに入った小学生たちが次々に集まってきて、手に握りしめたお小遣いを照れくさそうに募金箱に入れてくれました。その姿にはとても感動しました。
 被災した東北の人たちに援助の手をさしのべようと始めた活動は、その後、布団や衣類、米や林檎などいろいろな物資の支援へと広がっていきました。
 このような救援活動と併行して、行政への働きかけも行いました。震災三日後の3月14日には、青森県知事に対して、被災者支援に万全の体制で臨むこと、ガソリンや食料品、生活必需品の供給に全力で取り組むことなどを申し入れました。
 地震発生の翌日は、弘前大学の後期試験があり、他県から来た受験生が帰郷できない問題が起きていました。このことでも「居住スペースの確保など、手を打つべき」と求めたことに対して、対応した副知事はその場で検討を約束し、その後県体育協会の研修施設などが緊急的に利用できることになりました。
 4月10日投票の選挙では「『福祉の心』を持ち防災に強い県政へ」「原子力行政を見直し、エネルギー政策の転換を」などの公約が共感を呼んだことと、後援会員の皆さんの奮闘により再選を果たすことが出来ました。これからも、被災地の復興支援と原発ゼロをめざし頑張っていきたいと思っています。
(日付など数字は算用数字に変えています。「民主文学」No.558.2012年4月)