健康な体を願って


                   安藤晴美

 末の息子が高校を中退し、通信制高校に入学し直した頃のことだ。息子のこの軌道修正の青春にたじろいではいられない。応援してあげるしかない。そしてこの機会を自分のチャンスにしてやろう、と4人の息子を育て長いPTA活動に関わってきた私は考えた。もうこれで長かったPTA活動から卒業だ。これまで自分のために時間を作ることは母親になってから長い間お預けの日々だった。私は「これを機に自分のための時間を少しだけつくっていこう」と考えた。これは、もしかしたら自分に与えられたチャンスかもしれない。そう思った。
 ちょうどその頃Sさんから本町にあるペアーレ弘前のスポーツトレーニングのお話を聞いた。「Sさん!最近スマートになったんじゃない。」「膝が痛くてお医者さんから勧められて身体を動かしに行っているの」との会話から得た情報だった。その頃、私は体脂肪と体重がちょっと気になり、運動不足も自覚していたので、Sさんの通っていた弘前社会保険健康センター「ペアーレ弘前」に、早速私もおそるおそる門をたたいてみた。
 何回かトレーニング機器の使用方法の講習を受け、あとは決められた曜日の好きな時間に行って、健康運動指導士の先生が組んでくれているプログラムにそって身体を動かす。1週間に1度1時間半〜2時間ほど汗をかく。とてもとても心地よかった。運動して汗をかくという経験は数十年ぶりではなかったか。それまで時々起こっていた肩こりが嘘のようになくなっていた。議員をしている私にとって議会や日頃の活動のストレスを解消する絶好の場所になり始めていた。市役所に近いということが利用しやすい条件になった。時間をやりくりして通い始めて2年くらい経過した頃、身体の不調を訴える夫も誘い一緒に通うようになった。あっという間に私よりも熱心な利用者となった。夫が熱心になったのはむろん運動のお陰で身体が調子良くなっていったからだ。ところが、夫が通い出して数ヶ月の頃その「ペアーレ弘前」が年度末をもって閉鎖されるという話が持ち上がった。この先利用し続けることができなくなる事態となったからだ。2004年暮れのことだ。
 この施設は社会保険庁が被保険者などの健康増進施設として1991年に建設した施設であった。スポーツトレーニングルームの他に中高年者用の温水プールやエアロビクスが行えるホールなどもある施設で、文化講座も多数開設され、営業開始以来12年の間にのべ88万5000人が利用したという。
 閉鎖の話を聞いてからの約1ヶ月間は「残念だな。」と惜しむ気持ちで通っていた。ところがあちこちから「何とかしたい」「何かやろうよ」「だまっていていいの」という声があがり、住民の苦難解決を旗印に日夜頑張る日本共産党の議員である私は、たまたま一利用者でもあったことから、立ち上がる決意をすることになった。みんなの思いに押されたという形だ。
2005年2月5日「『ペアーレ弘前』閉鎖の経緯を聞き、これからを考える会」を開催した。施設内にポスターを貼り利用者の皆さんに呼びかけた。「ペアーレ」のレッスン室を借りての初会合となった。所長に経過説明をしてもらった。色々意見が交わされ、だめかも知れないけれど存続を求める署名運動をすることになった。「ペアーレ弘前の存続を求める会」が発足された。会長は「ペアーレ」常連さんである弘前大学のカーペンター先生にお引き受け頂いた。約一ヶ月で2600人分の署名が集まり、3月7日社会保険庁長官宛を青森社会保険事務局長に、弘前市長宛を市健康福祉部長に提出した。地元紙は丁寧にこの市民運動を報じてくれた。
 閉鎖を前にした、3月25日トレーニング室の利用を求める有志の会(代表カーペンター、安田智子、高橋誠)として、青森社会保険事務局長あてに「トレーニング室の借用に関するお願い」も提出した。
 高橋千鶴子衆議院議員にも国の動向を調査してもらったが、年金福祉施設は例外なく整理する、1円でも高く売却して原資を回収する、そのため、自治体も含め一般競争入札とする、というものだった。
 残念ながら、施設は予定通り閉鎖された。そこで、同じ形で存続を求めることは不可能であることがはっきりしたので、今度はこの施設を、市に対し活用を求める運動を始めることになった。中高年の市民の健康増進に役立つ施設として市に買ってもらおうという運動だ。その世論を作ろうと、2005年7月15日弘前駅前市民ホールにてシンポジウムを開いた。「いきいき生活しませんか?身体にやさしい健康づくりフォーラム」〜元「ペアーレ弘前」を健康づくりの中心に〜をテーマにコーディネーターはカーペンター氏、シンポジストは健生病院整形外科医森永伊昭氏、介護センター「虹」インストラクター工藤美沙子氏、弘前大学教育学部教授清水紀人氏、健康運動指導士奈良岡匠氏らによるもので、運動と健康の密接な関係などを再確認する場となった。 
 会場となった弘前駅前市民ホールは元利用者を中心に100人近くが集まった。このシンポジウムが新たな運動の協力者を呼び込むことになった。保険医協会の成田博之氏だ。町の中心に位置するこの施設を健康拠点施設にする意義は高いと、新たな視点で様々な分野の方々を運動の輪に巻き込んで下さった。みんなの話し合いは続き、この施設を「健康プラザ」にしようという構想が生まれ、これを市にも示した。が、市はそう簡単には賛同してはくれなかった。
 そうしているうちに、一般競争入札が2006年1月17日に行われることになり、市民団体「健康プラザ準備会」(代表成田博之)としてこの入札に参加する運びとなった。連日のように、夜遅くまでの話し合いが続いたが、この施設を市民の健康に役立たせようとという結論に達した。東京で行われた入札には仲間の一人成田千恵子さんが代表して出掛けて下さった。結果は、全国でホテル事業などを展開する東京に本社のある「共立メンテナンス」が落札し、ビジネスホテルを建設することになった。
 その後成田代表と、この落札業者との話し合いが行われ、市民運動を評価し共鳴して下さり、取り壊す前に中にあるすべての財産を私たち市民団体に寄贈して下さるという展開になった。その機材を活用し、市民の手で健康プラザが開けないかの模索もおこなわれた。しかし、健康運動指導士の人材確保や適当な場所が確保出来ずあきらめることになった。とりあえず、寄贈を受けることになった財産を搬出しなければならない。どうなるかと思いきや市民のエネルギーたるや大したものだなとつくづく感じた。2006年4月1日弘前大学の運動部の学生を始め、元ペアーレの利用者など約50人が協力しあって、トレーニング機器をはじめ事務室の機材から囲碁セットなどなど運び出せるすべてのものを、あらかじめ確保した場所に搬出したのだ。
 一旦運び出された機材すべてを市に寄贈し、市民に還元してもらえないかとの申し入れを弘前市に行った。この4月は合併後初の市長選が闘われ、市民の多くが予想だにしなかった、相馬新市長の誕生となり、有効活用の返答がもらえるかもしれないとの期待をしたが、残念ながらだめだった。
 どうするか、会の多くの皆さんが仕事を持っているため、夜遅く集まっての話し合いが何度も何度も行われ、方向を決めていった。健康機器以外のすべてのものを、福祉施設に寄贈することになった。福祉バンクの皆さんが中心になって津軽地域の施設に声をかけて下さり希望をとり、立派な国の財産だったものが福祉施設の役にたつことになったのだ。そして、あとの運動機器はこれまでの保管料を捻出しなければならないこともあり、格安で買って頂くことになった。ただ、市民が活用できる場所におけるのであれば無料で譲り、市民に還元していこうということになり交渉した結果、「サンライフ弘前」で受けて下さることになり、数台の運動機器が利用されることになった。あとは、医療機関や私立高校を中心に買い手が決まり、順次市民団体の手から離れていった。
 2006年11月26日報告会を開き、すべての費用を捻出した後残った48万円の使い道を話し合い、市民の健康づくり事業に生かそうとNPO法人スポネット弘前に委託することになった。こうして約2年がかりで続いた市民運動にピリオドが打たれたのだ。
 2007年3月9日付け新聞に「弘前『ペアーレ』跡地のビジネスホテル客室196、来年5月開業『ド−ミ−イン』本県初」との見出しと、工事の様子を移した写真が目に飛び込んできた。税金の無駄遣いやめよの声をバックに動き出した今度の社会保険庁財産処理なのかもしれない。しかし、国民の財産をもう少し、丁寧に扱ってほしいとつくづく感じた一件であった。私は、この運動を通して友という財産と健康を守るというネットワークの財産を手にすることができた。夫と週1ペースの運動デートはまだ復活をみていないが、最近、運動の効果か、体重が徐々に減少し、一つの目標が達成できたと一人喜んでいるところだ。
(「弘前民主文学」128、2007年4月15日)