はばたけ星史 (中編) 安藤晴美 星史が、生後半年目くらいだったでしょうか、片腕を使っては虫類の様に前へ進むことを覚えると、部屋中を冒険しては何でも口に入れて物体の確認作業をしていました。たくさん動き回っていたので、眠る時は母親の手を握って指しゃぶりをしながら、ことんと眠ってしまうという具合にあまり手のかからない子でした。夕方、母の私が家族6人分のご飯支度に取りかかろうとエプロンをかけて台所に立つ頃、眠くなったりするとハイハイしてきては、ぐずるのですがかまってあげられないでいると、そのうち私の足の指を触りながら指しゃぶりをして、足下で眠ってしまうということもありました。その仕草がとても可愛かったです。 小学校一年、幼稚園年中組、二歳だったあなたのお兄ちゃん達の面倒を見ながら、四人目の赤ん坊だったあなたを育てることは、なかなか大変で、面倒を見てあげたくても時間帯によっては手が回らないという状況でした。それでも、お兄ちゃん達の刺激を受けて逞しく育っていきました。 あなたが初めて言葉をしゃべったのが確か「てめえ」だったと記憶しています。お兄ちゃんやその友達の様子を見聞きして育っていった星史らしいエピソードです。 ハイハイを始めた頃から、その頃住んでいた官舎内敷地の広い野原で良く遊ばせてあげました。土手の上り下りなども、意識的にさせてあげたので、足腰がとてもしっかり育ちました。 その頃五階建ての官舎の二階に住んでいたのですが、同じ階段の一番上に住んでいた女の子二人がいる野沢さんの家から頂いた、お下がりの、小さい子がまたがって足で床をけり前へ進んで行くニワトリの姿をした遊具を、「コッコちゃん」といってとても気に入っていました。官舎の敷地内の道路を、まるで暴走族のように、2歳くらいの時からぎゅっぎゅっと足で、道路をけりつけて動き回っていました。 そんな風に思いっきり外で遊んで育ちました。官舎のあった学園町は、弘前大学の学生の為のグランドや馬小屋もあり、我が家の子育てには最適な環境でした。 近くの、児童センターで毎週火曜日お母さん達が、自主的に行っていた女性団体新婦人の親子リズムは大好きでしたね。「とんぼのめがね」の曲に合わせて、とんぼになってホール一杯走り回ったり、お母さんに足を持ってもらっての倒立やワニさんになっての前進。先生役のお母さんのオルガンに合わせ、たくさんの友達といつも元気に得意気に頑張っていました。ある時、官舎のよそのお宅のお母さんから、 「星史君いつも、うちに来ては私たちの前でリズムやってくれるのよ。そして、Aちゃんも新婦人の親子リズムに入ればいいよって宣伝もしていくのよ。」 と教えてくれました。 星史が、3歳になり幼稚園に行くようになってから、お母さんは新婦人の事務局長の仕事に就くことになりました。 それで、星史は朝は家から通園バスで幼稚園に向かい、帰りは新婦人の事務所近くまで朝とは違うコースのバスで送ってもらい、夕方まで事務所で過ごすこともしばしばでした。それで事務所に来るのがいやで時々、別のコースに乗せてもらい、好きな友達のうちでの遊ばせてもらうこともありました。 しかし、その頃から新婦人で始めた農民組合との産直野菜の活動の苦労などを見ていたようで、ある時知人宅にぶどう狩りに呼ばれて、そのお宅の庭で談笑していた時に 「新婦人の産直にこのぶどう持っていkrっいいよ。みんな喜ぶよ。お金も儲かるよ」 と、星史なりの提案をしてくれる場面がありました。産直運動の苦労を見てたのですね。 みんなで大笑いでした。 我が家が、学園町から程近い振興住宅に引っ越し、幼稚園からまっすぐ家の前まで通園バスで送り届けてもらうことがあったのだけれど、お母さんがバスの時間に間に合わず、飼い始めていた愛犬ゴンの犬小屋に入って泣いていたことがありましたね。忙しいお母さんでしたから、長時間見てもらえる保育所に入園させることも考えたのだけれど、保育料が高くて入れられませんでした。今になって言い訳しても始まりませんね。つらい思いを小さい時からさせてごめんね。 うちでは、特にすぐ上の隆太兄ちゃんの後にくっついてよく遊んでいました。 母離れも早く、3歳頃遠慮がちに自分からこんなことを言ってきました。家族で温泉に行った時のこと、それまで星史だけがお母さんと女風呂に入り、お兄ちゃん達はみんなお父さんと一緒の男風呂に入っていたのですが 「今度からお父さんと一緒に入ってもいい」 と聞いてきました。母としてはとても寂しかったのですが、仕方ないですね。 「いいよ」 というと、 「やったあ。」 といって、喜んでお兄ちゃんたちのいる男風呂に走って行きました。 こんなこともありました。4歳くらいの時だったでしょうか、毎晩の絵本の読み聞かせが終わってから、布団に入って寝かせつけるのが習慣となっていましたが、ついつい母が先に寝てしまう事が多かったのでした。 ある日、絵本を読んでもらってから星史に 「一人で寝れるからお母さんもう行ってもいいよ。」 と言われてしましました。 「そんなこと言わないで。お母さん星史と一緒に寝たいよう。」 と、布団に潜り込んだのを覚えています。 さて、小学校に入ってからのこと。最初はスムーズでしたが、勉強がいよいよ本格化し字を毎日覚えていかなければならなくなった頃、朝起きてこないのでベットの所に見に行くと 「ぼく学校に行かない」 と言い出し、ベットの柱にしがみついていました。 「どうして」 と聞いても、 「何でも。行かない」 と言うばかりで、何故学校に行きたくないのかはっきりしないのです。どうしたものかと思いつつ、初めが肝心とばかり強硬手段に出てみました。絵本に出てくる「大きなかぶ」の劇のように、星史の腰をぎゅっとつかんで「さあ起きて学校にいくよ」と引っ張りました。さらに、星史は、ぎゅっと強固に柱にしがみつき、お母さんは又、力一杯星史の身体を引っ張りました。 すると「大きなかぶ」が勢いよく抜けたように、星史の身体がお母さんの身体と一緒に大きくよろけるように柱から離れました。そこで、もう一度聞いてみました。 「何か学校であったの」 「おんなじクラスのBが何でもできてすごいんだ。ぼくは分からないの」 「そうか。そうなのか。B君は塾に通って猛勉強しているらしいからね。でもさ、できなくてあたりまえなんだよ。だから学校で勉強するんだから。分からない時は、先生に聞いていいんだよ」 少し安心したのか、 「うん。わかった」 と徐々に気分を取り戻し、身支度を始め学校に行くことができました。 その後、星史の学校生活は色々あったけれど、あの時のように柱にしがみつく我が子を「大きなかぶのかぶ抜き」のようなことをすることもなく元気に学校に通いました。 もう一つ小学校低学年の時のことで、忘れられない事件がありました。 ある時、小学校の同級生のお母さんから電話がかかってきました。 「もしもし、Cの母です。実は、うちのCがおばあちゃんの財布から、おかねを抜き取って友達みんなにあげていたらしいんです。Cが言うには、みんなにせがまれ、また持ってきてって言われて、繰り返していたようで、全部合わせると随分の額になる様なんです。 ここまで、気が付かなかったうちも悪いんですが」 と、我が子が引き起こした「事件」を伝えてきました。 仲の良い友達3人と、D君のお兄ちゃんも加わり、そのお金でみんなでお菓子やおもちゃなどを買っていたと言うことが分かりました。 これは、きちんとしておかなくてはいけないと、担任の先生にも伝え、関係者の親が集まり、弁償することになりました。 子どもたちの話を聞くと、最初は学校帰りにじゃんけんで負けた子が、次の電信柱まで勝った子のランドセルを持って行ってあげるゲームをしていて、負けたC君がうちから持ってきていたお金を出すようになり、味をしめたみんなが、ねだるようになったというのが真相のようでした。C君は、箪笥の引きだしにおばあちゃんのお金がたくさん入っていたのを知っていたらしいのです。それにしても、かかわった子どもの親として、C君のおばあちゃんには、本当に申し訳ないことをしたと思っています。 Cちゃん宅に親子で伺い、大体の額をそれぞれ持って行き、おばあちゃんにみんなで謝りました。我が家では、それと同時に、自分が使ったお金がどんなに大変なものだったかを知らせなくてはいけないと、弁償した3千円分くらいだったでしょうか、お手伝い券を作り、うちの色々な手伝いをしてもらうことになりました。 一回十円、五十円、百円の手伝い券ですから、券がなくなるまで手伝いをすることになりました。やってもやってもぶら下げられたその券はなかなかなくなりませんでした。それでも、星史はめげずに頑張って手伝いをし続けました。お陰で、茶碗洗いとか風呂掃除、トイレ掃除が随分上手になりました。 その時のC君と星史は、未だに大の仲良しで弘前に帰って来れば、いつも会っている仲なんですよね。その時以来、C君のお母さんとは、親子共々親しくさせて頂いています。 あの時は我が家にとって、初めての度肝を抜かす大事件でしたが、その後もびっくりするような事件が何度か起き、私たち夫婦は親としての試練が続きました。(「弘前民主文学」133、2008年12月15日) |