はばたけ星史 
(後編)

                       安藤晴美

 その後中学生になった星史は、小学生に続き野球部に籍を置きスポーツに全力を注ぐ中学生として元気に過ごしました。勉強は、数学が大の苦手で中一の最初の頃までは、お父さんも必死になって教え、お母さんも夏休みの宿題につき合うということもあったけれど、お父さんもお母さんも超多忙で、勉強のことをとことん目配せできなくなっていきました。  
 塾に行く事や家庭教師をお願いする事も勧めてみましたが、あなたは首を縦にはふりませんでした。今になればあの時もっと色々な手段を講ずれば良かったかなとちょっと悔やまれます。
 ずっとあとから、
 「勉強が分からず教室にいて授業を聞いているのが本当に苦痛だった。」
と、ぽつりと語った事がありました。
 親も真剣にその事実と向き合うべきでしたね。  
 国語の先生からは、
 「星史君の質問はするどくて教師として、はっとすることがある程です。国語の力を伸ばしたら」
とアドバイスされたこともありました。覚えていますか。
 苦手な授業をカバーできないジレンマ、そして特にあの頃我が家ではお父さんが、1年間長期留学で不在になり、お母さんは市会議員一期目の忙しさで忙殺され、あなたにとって家庭が心地よい居場所にはなっていなかったと思うのね。多分そんなことも影響していたと思うのだけれど、中学生活にじわじわと波風がたって行きました。いえ、お母さんにはそう見えました。制服のズボンをずり落として履いたり、中2の頃にはちょっと太いズボンを履いたりしていました。
 でも、見かけだけで判断はすまい。この子が何を考えているのか注意深くみつめようといつも自分に言い聞かせていました。周りにいるどんな友達も、星史にとってかけがえのない友達という視点も忘れないように心がけました。
 ある夜、遅くまで電話をかけ続けるあなたに注意をしようと部屋の外に立ち、ちょっと聞き耳をたててみたら、まるでお母さんの生活相談のように友人関係のアドバイスをしきりにしているのが聞こえました。この時、仲間の中で良き相談相手として我が子が信頼されているのだなと実感しました。
 しかし、困った事も起きました。
 中2の時だったと思います。10人程の親が学校に呼ばれ注意を受けた事がありました。いわゆる「たばこ」に関わる事件でした。
 星史が直接たばこを吸っていたとか持っていたと言うのではなかったのだけれど、ある子がたばこを持っているのを先生に発見され、その子ども、そしてその友達の証言に基づいて、要するに自分だけではなく友達の喫煙についても白状させて、その関係筋の親を呼んで注意するというものでした。
 星史が我が家で吸っている所を見たりした事はありませんでしたが、この時は「たばこ」が子どもの体にどれだけ害があるか、たばこを吸ってはいけない理由を一生懸命教えました。
 しかしその時の親の注意に対し、あなたは
「どうせ、お母さんは世間体を気にして注意しているだけでしょう」
と切り返してきました。
 「お母さんは、星史の親として何か問題が起これば、いつでも議員はやめる覚悟はもっている。でも、世間体がどうであれ、たばこは身体をむしばむもので、あなたの健康を心配して注意しているの」
と説きました。
 あれ以来お母さんは、青森県たばこ問題懇談会の一員としてたばこの害のない社会を求めて頑張っています。
 どうしても納得いかなかったのです。
 学校では、生徒には厳重な注意と指導を進める一方で、教師が教室や部活動で平気で喫煙する姿。
 「仕事場」として出向いていた市役所でも、職員の中には勤務中なのにも関わらず、あるいは、妊婦さんである職員がそばにいてもお構いなしに喫煙する姿がありました。
 お母さんは、弘前市議会でも何度となくこれらの問題をとりあげました。
 時間はかかりましたが、今では学校の敷地内禁煙が実現し、教師ばかりでなく運動会に来た父母にも協力を求めるようになりました。また、弘前市役所庁舎でも建物内禁煙となりました。   
 子どもがたばこを吸う事は、未成年だからだけではなく、年齢に関係なくガンをはじめ多くの病気を誘発し寿命を短くしていくという事実をしっかり学校でも教え、社会もその事を子ども達に伝えられる環境でなければならないと思っています。
 私の身近にも喫煙者が大勢おり、この問題を真正面から取り上げるのは、少々勇気がいりましたが、教育の現場で自分達の姿勢は棚に上げ、子ども達を犯罪者のようにまくし立てる一方的な姿勢に納得いかなかったからです。

 中学生の時に起きた事件で、もう一つこんな事があったのを覚えていますか。
 中3の始め頃に起きた事件です。
 この時は、さすがにお父さんと一緒に子どもを守るために立ち上がりましたよ。
 朝、星史が学校に行ってまもなく担任の先生から、「星史が警察に補導され学年主任の先生が、交番に親の代わりに身柄を引き取りました。」と連絡が入ったのです。
 びっくり仰天しました。
さっそく中学校の近くの交番に出向き、事情をよく聞いてみると、
 「学校が禁止している自転車登校をしている生徒がいるらしい、しかも学校にばれるといけないというので、学校の近くまで乗っていって、学校の近くのマンションの自転車置き場に置いて登校している生徒がいるとの情報を学校側が聞きつけ、生徒指導の先生が待ち構えて現場を見つけ、逃げた生徒達のうち何人かを取り押さえ交番に突き出して来た。」
というのです。
 つかまえられた生徒の中にあなたもいたのです。
学校のルールを踏み外した行為はいけない事であり、厳重な注意と反省を促す事は必要です。でも、なぜ、いきなり交番に突き出さなければならないのかどうしても納得できませんでした。
 さらなる説明によると、
 「警察に突き出したのは、その自転車が盗難車という疑いがあったから。」
というのです。
 その頃、実は我が家でもしょっちゅう玄関に置いてあった自転車が盗まれ、あまり続くのでたまたま粗大ゴミの日に捨てられていた自転車をお父さんが持ってきて、修理して使わせていました。
 しかし、星史の乗っていた自転車は警察で調べた結果、盗難届けの出されている物ではなかったことが判明し一応ほっとしました。
 でも、捨てられていた自転車でも盗難車であればそれを乗り回すことは、立派な犯罪だからと、交番のお巡りさんからは親が注意を受ける結果となりました。
 しかし、警察に突き出すという行為の前に親を呼んで確認してほしかったし、教育的配慮に欠けるのではないかという思いがぬぐえませんでした。それで、他のお母さんと共に校長先生に抗議に行きました。たまたま、校長先生は不在の時の出来事だったようで、適切な指導ではなかったと認めてくれました。そして、担任の先生からも、後で謝罪の電話が入りました。でも、警察に突き出した先生からは、その後何の連絡もなかったのは残念でした。
 こんな風に子ども4人目にして、まさしく身が縮むような経験をし、親業に磨きをかけることになりました。
 高校は、自分で早く社会に出て働きたいから、その為にも技術を身に付けたいと工業系の私学に進みましたが、1年の3学期怪我で入院したことや、日頃のさぼり癖がたたり単位不足で留年になってしまいました。
 自分の思っていた高校生活とのギャップもあったのか、親しい友達がいる青森市の通信制の学校に転校したいということになり、退学することになりました。
 でも、本当の事を言うと、我が子の退学は、親として初めての経験だったし、それこそ「世間体」が脳裏をちらつき、受け入れる決断をするまで少々時間を要しました。
 でも、その時のお父さんの態度はえらかったですよ。
周りを気にする風もなく、無理して同じ学校に籍を置いてもきっと長続きしないからと、子どもの選択を尊重する事が一番と主張しました。夫ながらさすが、大学の教育学の先生だけあるなあとその時は感心しました。それで、私も「世間体」を吹っ切って息子を信じようと思いました。
 新しいその通信制の学校は、5月が入学式でその時初めてクラスの雰囲気を垣間見ました。半分くらいはピアスに茶髪というスタイルで、あとの半分は不登校だったらしき、とても頭の良さそうな面もちの男女、又20歳をゆうに過ぎた感じの、仕事をしながら勉学に励もうという真面目な雰囲気の方達でした。
 星史は、自分で選択した新しい環境のもとで青春を謳歌しましたよね。かなり危険なこともしでかしたりしましたがね。
とにもかくにも、色々あったけれど青森まで3年間電車通学しながら、めでたく卒業したのですね。そして何とか「高校卒」の資格を手にしました。
 あっぱれという気持ちでした。
 なぜって、この「卒業」までには、親として、これで卒業出来るのだろうかと、イライラしたりびっくりしたりしながら「忍」の字で見守っていましたからね。
 でも感心したのは、自由になる時間いろいろな仕事にチャレンジしたこと。寒い冬に土方作業もやりましたね。良くがんばるなと感心してみていましたよ。
 夏休みには、東京のおばあちゃん宅に友達を連れてお世話になり、日雇い派遣で稼いで来ましたね。
 その時のエピソードがあります。
 東京で金髪デビューを果たしたのです。
 おばちゃんがすでに寝てから、深夜に髪を染め変身をしていたので、朝寝ている星史を起こしに行ったら、ライオンが寝ているのかと思って「ぎゃー」と悲鳴を上げたといって、電話をしてきました。
 そんなことがあっても、おばあちゃん達はあなたを受け入れてくれ、一生懸命仕事をする姿を認めてくれていました。ありがたいことです。
 高校時代にあなたが打ち込んだ音楽活動は、どんなものか私たちにはよく分からなかったけれど、ある時弘前文化センターで行われた東北大会を見に行き、すっかり見直しました。
 その頃やっていたのは「ヒップホップ」というダンスで、6人くらいのグループを作ってやっていたのですよね。
  これだけのダンスをするには、さぞかし練習時間が必要だったろうと、いつも夜遅く帰って来たのがやっと理解できました。
その後、「レゲエ」に、打ち込む対象が変わっていき、高校卒業後、愛知県の自動車関連の派遣社員をしてお金を貯めて、「レゲエ」の本場だというジャマイカにも行って勉強してきましたね。
その音楽が、「日本の民謡のような民衆の音楽として発展してきたもので、人々の生きる喜びや悲しみを表現したもので、ジャマイカでは子どもからお年寄りまで年代を超えて楽しんでいる」と、帰国してから教えてくれました。
 お母さん達、平和を求める女性で進めている「憲法9条つがる女性の会」主催で、若者たちと一緒に平和について語り合いたいと、「レゲエミュージックと戦争体験をかたり継ぐ会」を企画しました。
 その時、星史が友達と二人でチラシづくり、そして当日は音楽と進行を担当してくれて、80歳の野村さんと90歳の長内さんから戦争体験を聞く企画を無事成功させてくれました。
とても嬉しかったです。

 その後、あなたなりに将来を悩み、左官という職人の世界にも、飛び込んで必死に頑張りましたね。朝5時起きで仕事に出かけるという日もちょくちょくあり、寒い冬の外仕事にも耐え抜いたのですが、独特な人間関係に悩み残念ながら方向転換をせざるを得なくなりました。でも、あの時の必死さは私たちにもしっかり伝わってきましたよ。
  職人の親方になる姿をちょっと夢見ていたお母さんとしては、残念でしたがね。
今、あなたは大阪でアルバイト生活をしているのですが、私たちには何一つ愚痴もSOSも発せずに頑張っていますね。初めての大阪の地できっと大変な事もあるのではないですか。
でも、これまで色々と経験し、自分の足でかみしめながら進んできた事が、これからの人生にきっと役立ち、困難に対しても立ち向かっていく力になっていくと思います。
  今、大企業の派遣切りが大問題になっています。東京では「年越し派遣村」というのが作られ、寮も仕事も失った多くの労働者が暖かい援助の輪に救われ、次のステップのために歩み出しています。また、この輪が政治を動かす原動力にもなっています。これまで、正規の仕事につけないのは自分に問題があるからと自分を責めていた人たちも、派遣社員を自由に使えるようにし、利益が上がらなくなれば労働者を簡単に使い捨てにするというのは、まるで80年前に書かれた「蟹工船」の時代と同じではないか、という認識に立ち、労働組合に結集して毅然と大企業を相手に闘い始める姿が見られます。すごいことだと思います。
 あなた達はこうした、時代の大きな曲がり角にさしかかろうとする時代に生きています。自分の目の前だけを見るのではなく、大きな社会の動きも見つめて自分の人生と時代を切り開いていってほしいと思います。
 それでは、身体に気をつけて、大空に大きくはばたいてください。
(「弘前民主文学」134、2009年 4月15日)