日本にこそ「慰安婦」記念碑を
     そして被害女性に謝罪と国家的賠償を

                         安藤晴美

 日本軍「慰安婦」問題で日本の対応に、世界的な批判の声が上がっています。安倍氏が再び首相の座に返り咲き、これまでも何度も繰り返してきた「慰安婦」問題での発言「旧日本軍の関与と強制を認めた1993年当時の河野洋平官房長官談話について、『慰安婦』の『強制連行』を示す資料はないので、見直しを求める。」というこの主張を再び言い出したからです。安倍首相は、2006年から07年までの第一次安倍内閣の時も、同じ発言をして大問題となり、謝罪に追い込まれています。
 ジャーナリストの桜井よしこ氏らでつくる「歴史事実委員会」は、2012年11月4日の米ニュージャージー州の地元紙「スターレッジャー」に「慰安婦」問題を否定する意見広告を掲載しました。ここでは「女性がその意思に反して日本軍に売春を強要されていたとする歴史的文書は・・・発見されていない」「(「慰安婦」は)『性的奴隷』ではない。彼女らは当時世界のどこにでもある公娼制度の下で働いていた」という内容で、広告賛同者は、自民、民主などの国会議員39人で、当時自民党総裁に返り咲いた安倍首相他、現閣僚の4人も含まれています。しかも、この委員会は2007年6月にも米紙ワシントン・ポスト紙に同様の意見広告を出し、内外の批判にさらされたにも関わらずなのです。
 そもそも日本軍「慰安婦」の被害の実態が明らかになってきたのは、1990年6月、参議院予算委員会で日本政府が「従軍慰安婦は、民間業者が連れ歩いた」と答弁したのをきっかけに、1991年8月韓国の「慰安婦」被害者の金学順(キムハクスン)さんが名乗りでたのがきっかけでした。すでに亡くなられている金さんの思いを証言集から拾ってみます。「日本政府が「慰安婦」を連れ歩いたのは民間業者だといっているというニュースを聞いて、怒りが込み上げてきた。なぜそんなウソをいうのか。どうしても許せませんでした。それで「慰安婦」にされたと名乗りでて、日本政府を訴える裁判を起こしました。慰安所での生活を思い出すのは本当につらいですが、事実は歴史に残さなければなりません。将来にぜったいこのようなことがあってはならないからです。」と述べています。
 金さんの勇気ある告発はアジア各地で沈黙していた被害女性たちに勇気を与え、被害を受けた女性たちがつぎつぎに名乗り出ていくきっかけになったのです。
 被害女性たちの満身の告発を、安倍首相や桜井氏はどう受け止めるのか。両氏らが同じ主張を繰り返し、首相という立場でありながら河野談話の見直しを求めるということは、被害女性たちの告発に真正面から向き合うことなく、歴史の真実に目を閉ざしているからに他なりません。日本の政府の姿勢が問われています。
 被害女性たちの告発は国際社会に大きな衝撃をあたえ、数々の国際機関が「慰安婦」問題の解決に動き出しました。
 1993年以来国連人権委員会などで何度も報告書が提出され、2005年には「国際人権法の重大な侵害と国際人道法の深刻な侵害に対する救済と補償の権利に関する基本原則とガイドライン」が、国連総会で採択されています。その他「慰安婦」問題について日本政府に明確な解決を求める決議が、ILO条約勧告適用専門家委員会や女性差別撤廃委員会、拷問禁止委員会でも出されています。
 2000年12月、被害女性たちの声に向き合おうと、日本とアジアの被害国、世界の女性たちが結集し、東京で「日本軍性奴隷制を裁く女性国際戦犯法廷」が開催されました。ここには、8カ国の被害女性64人をはじめ、連日1200人の傍聴者が集まりました。日本国内各地から600人、アジアの被害国やアメリカ・ドイツ・オーストラリア・南アフリカなど30カ国から約400人が参加するなど、国際社会の関心の高さを示しました。この「法廷」の目的は、「慰安婦」制度はどのような犯罪で、誰に責任があるのかを明らかにし、法的責任を公的に明らかにすること、そして、戦時制暴力の根絶をめざす国際的なとりくみに影響をあたえることでした。被害女性たちは、つらい証言と共に「二度と若い人たちを私たちのような目にあわせてはならない。」と訴えました。
 この結果、2001年12月4日、オランダのハーグで昭和天皇裕仁に「有罪」が、日本政府に国家責任があるとする判決が言い渡されたのです。被害女性たちは「長い間胸にあった重しが、ようやくとれた」「正義は私たちを見捨てなかった」と喜びをかみしめたのです。
 こうした動きを受け、アメリカでは2007年1月、米下院で「慰安婦」問題で「日本の謝罪を求める決議案」が提出され、2月、元「慰安婦」3人(韓国人2人、オランダ出身者1人)が、下院公聴会で証言しました。その直後の3月、安倍首相は「強制性を裏付ける証拠はなかった」と発言し、各国から非難が殺到し「(安倍発言は米国内に)破滅的な影響を及ぼす」と駐日米大使が警告し、結局安倍氏は4月の訪米でペロシ下院議長らと会談し「河野談話」の継承と、元「慰安婦」へのおわびを表明せざるを得なくなりました。日米首脳会談でも「慰安婦」が人権侵害だったことを事実上認め、おわびしたのです。
 今回起きた2012年12月31日付産経新聞で語った「河野談話」見なおし発言も、「ニューヨークタイムズ」1月3日付けで安倍首相について「重大な過ち」「恥ずべき衝動」ときびしく批判され、国会で日本共産党志位和夫委員長から「『文書がないから強制の事実はない』という首相の議論が成り立たない」と追及され、首相は「筆舌に尽くしがたいつらい思いをされた方々のことを思い、非常に心が痛む」「首相である私がこれ以上申し上げることは差し控えるのが適当」と答えざるを得ませんでした。
 さて米下院に提出された決議案は、事実を否定する発言もあったために支持が広がり2007年7月30日下院本会議で採択されたのでした。このアメリカでの採択後、カナダ連邦議会下院やオランダ議会下院、欧州議会などでも、日本政府に謝罪・賠償・教育などをうながす決議が採択されました。これらの決議に共通するのは、日本政府は、明確であいまいでない公式な形で責任を認め、謝罪すること。責任を否定する如何なる言説に対しても毅然とした態度で公的に反論すること。現在及び未来の世代に教育すること。これらは10数年にわたって被害女性たちが求め続けてきたものであり、国連人権委員会だけでなく、国際法律家委員会やアムスティ・インターナショナルなど、数々の国際人権団体が繰り返し勧告してきたものなのです。
 被害女性たちの訃報が相次いでいると言います。高齢になった被害者達が生きている間に日本政府が、他国で行われた決議採択のように国会決議を採択し、謝罪と賠償を・後世への教育をしっかり行うことを世界に公約し、実行すべきです。
 アメリカでは、米連邦下院が「慰安婦」に対し日本政府が公式な謝罪を行うよう求める決議を採択したにもかかわらず、日本政府が2年近くたっても何もしないことから、ニューヨークに住む韓国系米国人・韓国人の支援組織「韓国系米国人市民エンパワーメント」スタッフの一人であるチェジン・パクさんが「慰安婦」の方々は亡くなってしまえば忘れ去られてしまうけれど、記念碑があれば忘れられることはないと「慰安婦」記念碑設立を求める署名運動を2009年4月に始め、当初バーゲン郡庁所在地ハッケンサックの裁判所前の『奴隷制』犠牲者の記念碑の近くにと希望し、それがかなわなかったものの、代わりにパリセーズパーク市のジェームズ・ロトゥンド市長が受け入れてくれ、街の図書館の一角に米国で最初の「慰安婦」記念碑が建てられました。
 2012年5月1日、在ニューヨーク日本領事館の廣木重之総領事がこの最初に記念碑を設置したジェームズ・ロトゥンド市長を訪ね、「慰安婦」記念碑の「額」を取り外す見返りに、町に桜の木や図書館の蔵書の寄贈を持ちかけました。市長は即座にそれを拒否しました。その直後の6日には、自民党の古屋圭司衆院議員、山谷えり子参院議員ら「自民党領土に関する特命委員会」の4人の議員が、市長や同市の議員らに会い、記念碑の撤去を要求しました。市長がその後の会見で「古屋議員らは、『慰安婦』の数として記念碑に書かれた『20万人以上』という数字が間違っている。『慰安婦』は自ら進んで兵士に奉仕したと述べた」ことを明らかにました。この時の自民党議員の撤去要求がきっかけになって、2012年6月に新たにニューヨーク州ナッソー郡ウェストベリーにあるアイゼンハワー公園の退役軍人記念広場にも記念碑が設置されました。
 その記念碑には「『慰安婦』として世界に知られた、1930年代から45年まで大日本帝国政府の軍隊によって性的奴隷とされるため拉致された20万人以上の女性と少女を記念して。彼女らが人道に対する憎むべき罪の犠牲となったことは、知られないままであってはならない。彼女らが受けた人間の尊厳の重大な侵害を忘れてはならない」と刻まれているのです。そして、最初に設置希望地とされ、かなわなかったニュージャージ州バーゲン郡裁判所の前に「慰安婦」記念碑が設置されることになりました。2011年に就任した女性の州知事が2012年
10月に「『慰安婦』を記憶し、敬意を表し、それをけっして忘れてはならず、世界が繰り返してはならない。『慰安婦』に起きたことが、残念なことに今も人身売買として起きているから」と設置を決めたのです。
アメリカで起きている運動に学んで、私たちも「慰安婦」記念碑を日本の隅々に設置し、日本政府の姿勢を追い込んでいきたいそんな思いに駆られています。そして、なんといってもタカ派政治をストップさせなくてはという思いを強くしています。

※日本軍「慰安婦」とは?
  日中戦争、アジア太平洋戦争末期に日本陸海軍は、 強姦防止・性病対策・士気高揚・機密保持の目的で慰 安所を設置しました。日本軍「慰安婦」とは、そこで日本 軍将兵の性の相手を強いられた女性たちでです。
 「慰安婦」という言葉は当時の軍が使った言葉ですが、 実態は「慰め、安んじる女性」どころか、厳しい監視のも とで監禁状態におかれ、女性たちは拒否する自由も逃 げる自由もなく、日本兵の性の相手を強要された性奴 隷でした。「慰安婦」という言葉はその実態を覆い隠す ものであるため、国連機関は早い時期から「性奴隷= Sexual Slavery 」と表現しています。日本人や朝鮮人女 性は日本軍が駐屯するアジア各地に移送されたため、 かなりの数に上ります。さらに、日本軍は現地の女性  や 捕虜収容所の女性たちをも「慰安婦」にしたり、部隊 独自で女性たちを監禁し、強姦を繰り返しました。現在 分かっているだけでも、朝鮮・中国・台湾・フィリピン・イ ンドネシア・マレーシア・東ティモール・ベトナム・オラン ダ・フランス・アメリカ(グアム)・タイ・ビルマ・インド・ユ  ーラシアン(欧亜混血)・日本など、多くの地域の女性た ちが「慰安婦」にされました。

 ※この原稿をまとめるために、しんぶん赤旗日曜版1  月13日号「安倍首相の『恥ずべき欲求』」、日刊紙2月 連載「『慰安婦』の悲劇わすれない。」「女たちの戦争と 平和資料館」編日本軍「慰安婦」、「中学歴史教科書に 『慰安婦』記述の復活を求める市民連絡会」編「この歴 史を忘れまい」を参考にさせて頂きました。

             (「弘前民主文学」146、2013年4月15日)