核燃に思う


                            安藤晴美

 2007年の一斉地方選挙で青森県議会議員に選出されてから、早2年と4ヶ月が過ぎようとしている。私は、県議会議員になって県議会の場で「核燃反対」の立場で質疑ができる事を大変嬉しく感じると共に大きな責任を感じている。というのは、1981年に私たち家族が青森県弘前市に引っ越してきて数年後に青森県六ヶ所村に核燃料サイクル施設が立地されるという問題が持ち上がり、立地反対の大きな運動が弘前市でも起き、私たち夫婦もそれぞれの立場でこの運動に参加してきたという経緯があるからだ。
その当時青森県が受け入れを了承するに至った経緯を振り返ってみたいと思う。
むつ小川原開発計画は、高度経済成長末期に具体化するが、その構想とは大規模臨海工業基地建設であった。しかし青森県六ヶ所村の開発地区に工場の進出はなく、同開発計画の失敗は明らかだった。地域住民から最終的に開発用地を取得した第三セクターむつ小川原開発(株)の経営危機で、むつ小川原開発計画は途絶するかにみえた。ところが1984年4月、電気事業連合会が青森県に対して核燃料サイクル施設の立地協力を要請し、青森県ならびに六ヶ所村は、同施設の安全性などの充分な検討もおこなわず、わずか1年足らずで立地を受諾してしまう。それ以降、むつ小川原開発計画は核燃サイクル施設を中心とした開発計画となり、青森県ならびに六ヶ所村は、日本の原子力政策の動向にほんろうされることになった(秋元健治著「むつ小川原開発の経済分析」)。
ここに見られるようにむつ小川原開発計画の失敗の尻ぬぐいとして始められたのが、青森県を放射能の不安におとしいれる核燃料サイクル事業であり、下北半島が原子力半島と呼ばれる状態に引き込まれて来たゆえんである。しかし、住民の反対運動も一方で大きく広がった事を忘れてはならない。1988年12月「青森県農協・農業者代表者会議大会」で、核燃サイクル施設反対決議。1988年青森県保険医協会の呼びかけのもと保団連の全国大会で「核燃」反対決議。1989年8月31日現在、総会において核燃反対決議を行った農協は35農協、理事会での決議は15農協と、県内92農協中50農協が反対の意思表示。1991年2月3日に行われた知事選においては「白紙撤回」を主張した金沢茂氏が善戦し、「推進」北村氏は当選したものの得票率は過半数をわった(核燃料サイクル施設問題青森県民情報センター「核燃問題情報」)。
この20数年の間県民の意識の中に、「もう今更反対しても」という意識が形成され、反対だった立場から容認の立場に変わってきた人たちも大勢いるのも事実だ。その象徴が1989年7月に闘われた参議院選挙において「核燃阻止」を掲げて参議院議員に当選した三上隆雄氏が、その後国会議員から県議会議員となり2008年に核燃推進派の民主党会派に鞍替えしたことだ。
さて、私は県会議員となり初めに所属した環境厚生常任委員会をはじめ、一般質問、決算特別委員会などで核燃・原子力政策に関わる質問を勉強しながら精力的に行ってきた。というより再処理工場は、まともに進む事がなく事故・トラブル・計画の先延ばしと、次々に追及する出来事が後を絶たないと言うのが実態なのだ。こうした中、核燃再処理工場本格稼働を前にして是非とも津軽地域でも反対の運動体を作ろうと呼びかけ、2008年2月に核燃料サイクル施設立地反対つがる連絡会議(通称核燃だまっちゃおられん津軽の会)を立ち上げることができた。代表には弘大の宮永崇史氏、同じく弘大の大坪正一氏、元高校教員阿部東氏そして私の4人が就く事になった。約1年半活動を進めてきたが、最近では1年かけて作られた紙芝居が出来上がり、難しい問題を誰にも分かりやすく訴えられると評判になっている。必要な方には、お譲りもしている。学習・アピール・調査・交渉と幅広い活動を、楽しく進めている。反核燃の運動を進める仲間がいると言う事が私の大きな支えとなっている。
それにしても、2006年3月31日に再処理工場の試運転(アクティブ試験)が開始されて以来トラブル続きで、試運転の終了時期は16回も延期に延期を重ね、2009年8月を終了目標にしていたが、現在再び不可能となっている。2007年11月に開始された高レベル放射性廃液のガラス固化体製造は、1ヶ月後の12月には溶融炉の底に金属粒子がたまり、溶融ガラスの流下が鈍くなり最初の固化試験中断。前処理建屋で、2008年1月にせん断機作動用の油約750リットル漏えい、4月にも油約60リットル漏えい。7月に約半年ぶりにガラス固化体製造試験を再開したが、溶融ガラスの流下停止トラブル発生の為、わずか1日で固化試験の再中断。10月にガラス固化試験を約3ヶ月ぶりに再開したが、12月にガラス溶融炉に差し込んだ撹拌棒が曲がる。溶融炉の耐火れんがの抜け落ち。2009年1月ガラス固化建屋で高レベル放射性廃液約150リットルの漏えいが起こり、発見が遅れたため多くが蒸発して多くの機器や天井・壁にこびりついてしまった。しかし、その洗浄作業も出来ない状態に陥っている。
このガラス溶融炉について、日本原燃サービス(現・日本原燃)社長、日本原燃相談役兼技術最高顧問などを歴任した豊田正敏氏が、最近国の原子力委員会に提出した意見書の中で「十分な実証が確認されないまま実施主体(の原燃)に引き継がれ、著しい損害を被ったことは遺憾だ」と指摘した。六ヶ所再処理工場のガラス溶融炉は、旧動燃の東海再処理工場で開発された「LFCM法」を採用。同工場の炉を約5倍スケールアップしている。六ヶ所工場のモデルであるラ・アーグ再処理工場(仏)などで採用されている「AVM法」は導入しなかった。(他の技術はすべてフランスの技術を導入してきた)採用にかかわった豊田氏は、旧動燃の技術を入れた経緯について「当初はフランスの技術を採用するつもりでいたが、動燃側からの強い要請で開発中の国産技術を採用することに変更した」とし、採用した溶融炉は欠陥商品だと指摘しているのだ。
再処理工場が、このような「欠陥商品」を使って動かそうというのだから恐ろしい話だ。
断固試運転の中止と本格稼働するなという声を大きくしようではないか。
 最近手にした「ロッカショ」という本の中で、音楽家の坂本龍一氏が述べている事を一部抜粋してみたい。「訴えたいのは、青森県六ヶ所にある核燃再処理工場による、甚大な放射能汚染についてです。なんと、この再処理工場からは通常の原発から出る放射能の1年分が、1日で出るというのです。美しい三陸の海が汚され、その被害は何百世代先にまで及びます。こんな異常なことがまかりとおっていることが、にわかには信じられません。しかし、もっと問題なのは、ほとんどの人がこの事実を知らないということです。」
 私は、六ヶ所から直線距離で約85キロ離れた弘前の人間がこの問題を人ごとの様に関心を持たない事を、仕方がないかなとどこかで思っていたが、この本を読んで目を覚まさせてもらった気がした。青森県の人ばかりでなく日本中の人々が自分の問題としてとらえなければならない重大問題なのだと。
(「弘前民主文学」135、2009年8月15日)