カラフルな鍋敷き

 我が家に、いくつもの折り紙を丁寧に折り重ねて作られたカラフルな鍋敷がある。私と同年代の佳代さんから頂いた貴重な作品である。大小2種類あるのでこれを重ねて、大きなふくろうの貯金箱の敷物として利用している。
この作品は、彼女が通い始めたデイサービスで、動きのにぶくなった指先の訓練のために作ったものである。「お世話になった安藤さんにあげたくて一生懸命作ったんだよ」と今年の1月にプレゼントしてもらったものだ。
 佳代さんは今自分の病と向き合って、懸命に生きている。佳代さんとの出会いは、弘前で食堂を営んでいる吉田さんから「相談にのってあげてほしい」という一本の電話から始まった。おととしの秋頃であった。「もしもし市会議員の安藤です。吉田さんから何か相談がおありだと聞いたのですが。」と電話をしてみた。「ああ。今怪我をしてしまって動きがとれないし、相談したかったことも何とかなりますからいいです。」とのことだった。吉田さんからは、緊急を要するようなお話だったので、拍子抜けしたような感じをもちながらも「そうですか。それじゃあお大事に」と電話を切った。それから数ヶ月たった翌年の2月頃だったか、また吉田さんを経由して相談にのってほしいとの依頼が入った。
初めて顔を合わせた時、彼女はあまりにもふけて見えた。歩くのもやっとで、手も硬直しペンも思うように握れない状態であった。彼女は長い間夫から身体的、精神的暴力を受けつづけていたという。それに加え働きづめで、持病が悪化し身体はぼろぼろの様であった。子どもはいるのだが、父親から虐待を受けて育ち、学校を卒業すると同時に親元から離れ、それっきり父親のもとには二度と姿を見せないのだそうだ。そして、その子どもは数年後に結婚し、子どもも生まれ幸せに暮らし始めたのもつかの間、まもなく借金を重ねそのことが原因で離婚。借金を重ねた時、ついつい母親は頼まれるまま連帯保証人になり、そして、その後たちゆかなくなった息子は、数百万円に及ぶ借金を残し行方不明になったというのだ。返済はすべて母親の肩にかかってきた。そのことが夫にばれようものなら、「おまえが甘いからこんなことになるんだ」と暴力はエスカレートするに決まっているとの思いから、佳代さんはひたすら働き続け、息子のつくった借金返済に奔走した。
その働き方は尋常でなかった。朝は新聞配達、昼はスーパーでのパート、夜は割烹での皿洗いという具合で、寝る間も惜しんで働き続けたのだ。そんな働き方を何年もすれば、健康な人でも身体を悪くする。彼女には、持病があったので、もう限界にきていたのだ。
 そこまでの話を涙ながらにとつとつと語った。その日からひとつひとつ問題を解決するための歩みが始まった。
 とにかく、まずは借金の問題を解決することにし、自己破産の手続きを始めることにした。ペンも思うように握れない大変な状況であったが、何日かかけて裁判所に書類を提出した。その数ヵ月後裁判所から免責の通知がきたとの知らせを受けた。これで、息子の借金からやっと開放されたわけだ。
佳代さんは、相談に来た時から離婚を決意していた。もう我慢の限界を超えたというのだ。いつも夫の暴力におびえる暮らしにピリオドを打ちたいと、夫に離婚を申し出た。すんなりと受け入れてくれたようだ。その後私はアパート探しから援助し、彼女の自立の足場を固めた。働ける身体に戻るまで生活保護を受けることになった。ひとつひとつ丁寧に援助した。
新しい生活に落ち着く間もなく、病院の診断を受けた時には、かなり悪い状態になっており即入院になった。数ヶ月間彼女は必死になって持病と格闘した。その後退院し、ヘルパーさんの助けを借り、杖を使いながら何とか一人暮らしを始めた。
 病気を治して働くのだという熱い思い、それと、親と一緒に暮らすことができずに、遠い施設で暮らす可愛いお孫さんを、せめて年に何回かは呼んで家庭の味を味あわてあげたいという祖母としての思い、その為に病気には負けていられない、そんな思いで必死になって頑張っているのだ。<BR>
吉田さんが佳代さんのつらそうな働きぶりをみて、「大丈夫か」と声をかけたことから、佳代子さんは救われた。あのまま頑張っていたら、きっとどこかで働きながら倒れていたに違いない。
今、彼女は新たな病状の進行を食い止める為、再入院を余儀なくされている。どうか新しい人生を切り拓く為に頑張ってもらいたい。おばあちゃんと会えるのを楽しみにしているお孫さんの為にも。そして、何よりも彼女自身にたくさんの幸せが注がれるようにする為にも。
 我が家の居間にあるカラフルな鍋敷きを見る度、佳代さんの前向きに生きる思いが伝わってくるのだ。そして、私は心で「がんばれ。」とつぶやいている。
(「弘前民主文学」120号、2004年8月15日)