中村清徳さんに捧げる


 九月十日夜、中村清徳さんが亡くなられた。ちょうどその日私は、彼が所属していた日本共産党の地域支部のSさんと総選挙を前にした地域活動をしていた。清徳さんはその数日前から末期癌に加え骨析という事態に見舞われ入院を余儀なくされていた。Sさんと一緒に歩きながら「清徳さんの具合どうだろうね。また自宅に戻って来られるといいね」と心配しながらの行動だった。翌朝、田舎館村の村会議員選挙の応援のために小林喜美子さんの選挙事務所に出向き、彼の訃報をそこで知つた。
 清徳さんの妻であり日本共産党の地域支部の支部長でもある廣子さんと清徳さんの御二人の生き方、世の中を変えようという真摯な姿勢にはただただ頭が下がった。
 清徳さんの看病でどんなに大変な時でも、彼女は決して党の活動を休もうとはしなかった。清徳さんが癌と分かってからも白宅で療養しながら治療に専念する方法を選択した。だから、妻である廣子さんに看病の荷がすべてかかっていたはずだ。しかも、彼女自身足が思うように動かず不自由な身体で頑張って来た。しかし、清徳さんの癌が分かってからのこの一年八力月の間彼女の口から一度として、後ろ向きな言葉を聞いたことがない。いつでも、献身的な夫の看病につとめながら、党の活動も支えてくれた。
 私は清徳さんとじっくり話をしたこともないままであったが、いくつかの忘れられない思い出がある。一度メーデー行進後の交流会でお酒の人った清徳さんがいつもとはうって変わって、おしやべりで朗らかに私を励ましてくれた。忘れられないもう一つの思い出。それはある夜の会議でご一緒した際、車でご自宅までお乗せしたことがあつた。とても寒い晩であった。その時、車の中で最近腰に激しい痛みが走ること、父親が癌で亡くなったこと、父親も腰痛がひどく苦しんでいたために、自分が今、医者にいく勇気が持てずにいる、と話された。きっと心も身体ももがき苦しんでいたのではないかと思う。「早く病院にいって診てもらって下さい」と運転席から懇願した。
 それからも何度か痛い腰をさすりながら大切な会議でご一緒した。その後、多くの仲間の皆さんの説得でやっと病院に出向かれたと聞いた。診断の結果癌が発見されたと聞いたのはそれから間もなくのことであった。しかも手術できない状態だとの話であった。とても悔しく、また悲しかった。
 癌と向き合ってからの清徳さんには、心打たれるものがあった。自分の身体が動かなくなるまで、党の活動を続けたのだ。支部会議に参加し会議をリードし続けた。赤旗新間の配達や集金も随分後まで頑張っていたと聞いている。支部の行動で品川町での宣伝行動もした。雨降りの寒い日であった。
 そして2003三年の一斉地方選挙では、大分身体もきつかっただろうに本当に頑張ってくださった。県会議員選挙の時も私の市会議員選挙のときも、告示日の第一声にはちやんと顔を出し、聞いて下さっていた。また中村さん宅の近くでの衝頭演説の時も、表に出てきて聞いて下さった。もう私は清徳さんのその姿を見ただけで、目頭が熱くなってしかたがなかった。普通だったら病院のベットの上で静かに横たわっているであろう身体を押して、選挙に入ってからは、彼のその時の体力では多分大町の自宅から片道一時間以上もかかっ
たであろう知人宅にまで票読みに歩いて下さったのだ。党への熱い恩いが最後の最後までこうして誠実な行動につながったのだと思う。ただただ頭が下がる思いだ。
 今でも、次の話を思い出すと涙が止まらなくなる。
 清徳さんの遺言には、「最後は青銀の組合歌と労働歌を歌ってくれ」、「出棺のときは日本共産党の党旗でくるんでくれ」というのがあったそうだ。妻の広子さんは、清徳さんが大きく息を吸い必死に生きようとしている時に約束どおり青銀の組合歌で励ましたそうだ。そして最後のお別れの際には枢の上を真っ赤な党旗で飾り、出棺の時に身体は党旗でくるんで見送ったそうだ。命が燃え尽きるまで労働者魂をもち続け、党を愛し、闘い抜いていった
のだ。
 清徳さん、木当にご苦労様でした。やすらかにお眠り下さい。私も、清徳さんや廣子さんのように働く者が幸せになれる社会を築くために、そして御二人の初孫であるげんた君をはじめ未来を築く子どもたちがいつまでも平和な社会で生きていけるように党の戦列にしっかり立って亡き人の意志を引き継いで頑張っていきたいと思う。
                       (『弘前民主文学』第118号、2003・12・15)