亮介の冒険

                                      
安藤晴美

 1994年の夏はいつになく暑い夏であった。少しでも涼しい時に出発をと鈴子と次男の亮介は早起きしてその日を迎えた。7月24日午前6時。この日も日中の暑さが予想できそうな晴天であった。しかし、そうはいっても津軽の朝の空気は爽やかだ。庭に植えられたこぶしの木の中でさえずる雀たちが一層すがすがしさを運んでくれている。
 弘前市の郊外にある吉岡家の向かいはカトリック系の福祉施設になっており、きちんと手入れされた3メートル程のヒバの生け垣がきれいに道沿いに並んでいる。
 吉岡鈴子が夫と4人の息子と共に、狭い官舎からここに家を建て引っ越してきたのは5年前になる。花好きの鈴子が見よう見まねで育てているバラが、夫手作りの白い木の柵の中で勢いよく育ち始めている。
 「無理しないで。車に気をつけてね。」
 母親の鈴子は物をいっぱい積み込んだクロスバイクにまたがった亮介に向かって言った。
 見送りに夫の姿はなかった。大学教員の夫はその時長期の単身留学中で家を空けていた。亮介の下の2人の弟たちはまだ寝ていた。亮介の兄修平は、以前は自分がやっていた赤旗新聞の配達を、今は弟に交替していたが、弟の自転車旅行の間だけ再びやることになり準備をして出かける所だった。
 足をサドルにかけながらサイクリングヘルメットをかぶった頭を少し動かしながら
 「大丈夫だよ」
と亮介は、自分に言い聞かせるように答えた。
 「連絡してね。いざという時のあの駆け込み先の紙もちゃんと持った。お財布もいれた。」
 鈴子は矢継ぎ早に確認する。
「もった」
と亮太。
 修平は
「頑張れよ。途中パンクしないこと祈るよ。もし、パンクした時は教えた応急手当しろよ。」
と兄らしく声をかける。
 不安いっぱいの鈴子は手を振って家の前から見送った。
「行ってらっしゃい」
と早朝であることを忘れて大きな声で叫んだ。亮介は手を振り、新聞配達で稼いで買ったクロスバイクを力強く踏み込んで家を後にした。あっという間に姿が見えなくなった。鈴子の目から涙がこぼれた。
 次男の亮介が高校に入学し、夏休みの冒険を口にしたのは7月の初め頃だった。毎日陸上部で身体を鍛え、くたくたになって帰って来た。いつもあまり口数の多くない亮介が、遅い夕飯を食べ終わった後、突然自転車で東京を目指すと言いだしたのだ。
 「ええ。そんなの無理でしょ。泊まるとこどうするの。車で10時間近くかかるんだよ。自転車だったら何日もかかる距離でしょ。だいいち道わかるの。」
 鈴子の口から立て続けに、その計画は無理だと言わんばかりのことばが口をついて出た。
 「大丈夫。地図買った。泊まるのはキャンプ場探す。」
 亮介は、すでにひそかに準備をすすめ、その決意は固かった。
 「ちょっとまって。お父さんの意見も聞いてから。」
 その後筑波に留学中の夫が月に一度の割で戻って来るのを待って、話し合った。
 一週間ほどして戻った夫は
 「自分で自信あるならやってみればいい」
と亮介を後押しした。
 鈴子は、不安はあったが昨年長男の修平が友達と北海道への自転車旅行を決行し、たくましく帰ってきたという経緯があるので、最後まで否定はできないとは思っていた。長男と次男は1歳11ヶ月違いでとにかく小さい時から仲良く遊びたくましく育ちあってきた。小中学校では共に野球に没頭し、高校も同じ学校に入り、兄と一緒に陸上部で汗を流していた。今回の旅行は兄の冒険に触発されてのことだろうかとも思った。
 鈴子は、4月まで新日本婦人の会弘前支部の事務局長の仕事をしていたが、日本共産党からの要請を受け、42歳にして弘前市議会議員の候補者として翌年の一斉地方選挙に出馬することが決まり、なれない街頭演説などを始めていたところであった。夫が留学中、小学校4年から高校3年までの4人の子どもの世話をしながらのなれない候補者活動の連続で、次男の旅の話に深刻に悩んでいる暇がなかったというのが正直な所だった。しかし、どこかで亮介のことが頭から離れないでいた。ちょうど街頭宣伝車の車の中でふと鈴子はあることにひらめいた。
 「そうだ。共産党の事務所はどこの地域にもあるから、もしも何かあったらそこを頼りに駆け込めばいい」
 早速、青森から東京までのすべての地域の日本共産党事務所の住所と電話番号が記入された書類をコピーしてもらい、日本共産党津軽地区の相澤地区委員長に次のような一文を添えてもらった。
 「吉岡亮介君は、弘前市から東京まで自転車旅行中です。亮介君の母吉岡鈴子さんは日本共産党の市議候補です。もし何かありましたら御援助をよろしくおねがいします。」この2枚の紙を封筒に入れ、息子に渡しておいたのだった。
 亮介はこれを受け取るとき、母親の安心の為に仕方なく持っていくという感じであった。亮介が出発したその日、鈴子は机に向かってニュース作りのためにワープロに向かった。しかし、ついついぼんやりし、仕事は一向に進まなかった。
亮介は無事行けるだろうか。たくましく大きくなったな。と亮介の出産の時のことなどが思い浮かんできた。
 
 亮介の妊娠に気づいたのは25歳の時であった。
 その頃鈴子は東京世田谷区の保育園の保母をしていた。23歳で結婚し24歳で長男を出産したが、産休後3ヶ月の長男を自転車で20分程の無認可保育所に預け働き続けていた。長男が生後10ヶ月になった時、新年度の4月から自宅の近くにある中野区立保育園に子どもを移す事ができた。仕事や組合活動にも燃え、保育園に就職して5年目を迎えていた。ちょうどその頃、職場の中堅として責任ある仕事が求められ始めていた時だった。長男が区立の保育園に移ってまもなくして1歳の誕生を迎えた。それから2ヶ月ほどたち、歩くのが大分上手になり出した頃、2人目の妊娠に気づいたのだった。鈴子は「どうしよう」とあせった。私の他にも妊娠している同僚がいたので「まずい」と思ったのだ。気むずかしい園長のもと助け合うという雰囲気はなかったし、告げれば園長からまた攻撃されるのではないかとそのことを恐れた。
 まだ、医師による正式な妊娠の診断が下る前に、職場の旅行で海に行く機会があった。私は、祈るような気持ちで海の中に入り、お腹を冷たい潮水に浸した。自然流産をどこかで願っていた。
 しかし、芽生えたばかりのお腹の胎児は健康だったのだろうこの母親の思いにもたじろがずしっかり、お腹の中で育ち始めていた。
 長男を産んだ病院の同じ医師から、二人目の妊娠を告げられた。この医師から避妊の処置も受けていたので思わず
 「先生。どうして妊娠ですか。」
 「避妊の確立は99,999%ですからね。0,001%妊娠もありえることになります」
と、白衣に包まれた大きな身体の産婦人科医が、机上のカルテを見ながらちょっとばつの悪そうな声でそう言った。
 「ええ。そうですか」
 鈴子はちょっぴり医師をうらむ気持ちでささやいた。
 しかし、鈴子は職場の事ばかり気にしていた自分を振り返り、授かった命園長になんて言われようがちゃんと産まなくちゃと気を取り直した。ちょっと間をおいてから、
 「産みますので、よろしくお願いします」
と医師に宣言した。
 夫はまだ学生の身であったのだが鈴子の産む決意に喜んだ。
 翌日職場で園長に妊娠を報告した。
 「あのう、すみません。妊娠したことがわかりました。出産予定は来年の5月です。」「あら、そう」
 「はい。よろしくお願いします。」
 「すみ子先生が3月の予定だから、2ヶ月ずれることになるわね。しかたないわね。何はともあれおめでとう。身体に気をつけて頑張りなさい。」
 思いの他不機嫌な対応ではなくほっとした。
 こんないきさつを経過して元気な元気な赤ん坊亮介は産まれてきた。
 そして、今度は母乳もたっぷりあげゆったりと育てたいと約一年間の育休を取り、子育てに専念した。本当にすくすく順調に育ち、母親の職場復帰後は兄修平と一緒の中野区立保育園に通った。その後夫の仕事で弘前市に移り住み、3歳児になっていた亮介はのびのび保育の幼稚園に通い、地元の小学校入学後も元気印は変わらなかった。運動会では一等賞のリボンを三つもぶら下げ、いつもリレーの選手に選ばれるなど運動神経抜群の子として成長していった。親としても嬉しかった。
 しかし、この子の生きるエネルギーを感じるにつけ、ふと鈴子はお腹の中にいたあの時に自ら冷たい水にさらし流産を願った行為に対し、言いしれぬ懺悔の思いがつのってくるのだった。
 そしていつも
 「ごめんね。元気に産まれてきてくれてありがとう」
と心の中でつぶやくのだった。

 自転車の一人旅に出発した次の日の朝、子どもたちと朝食をとっていた時亮介からの初めての電話が入った。
 「もしもし亮介だけど」
とぼそっと話す。
 「大丈夫。今どこ。どこで寝たの」
 「安代って言うところ。バスの停留場の小屋で寝た。昨日は坂道ばっかりで大変だった」
 「そう、大変だったね。疲れたでしょ。そんな所に寝て何にも盗まれなかったの。蚊はいなかった。」
と、矢継ぎ早に訊く。
 「大丈夫だよ。」
 「朝ご飯は。」
 「これからどこかで買って食う。」
 「大分暑いから大変だね。気をつけてね。」
 「うんわかった」
 「水分たっぷりとりなさいね」
 「おう」
 「じゃあね」

 1日おいて3日目の夕方、夕食の支度で台所に立っていた時、亮介からの2回目の電話がかかってきた。
 「どうして昨日電話しなかったの。心配したよ」
と鈴子。
 「したくても電話するとこなかった。昨日は北上のキャンプ場で寝たよ。あのねえちょっとお母さん、こわいことがあった」
 「どうしたの」
 「今もうちょっとで仙台の町に入るとこまで来たんだけど、変なやつがつきまとってくる。」
 「ええ、どんな人なの」
 「ママちゃりに乗った変な男がおれの手つかんで一緒に寝ようとせまってくる。こわいよ」
 「えーそんな男がいるの」
 「お母さん。しかもその変なのが次々現れるんだよ」
 「わかった。無視して逃げなさい。仙台ならいくつか共産党の事務所があるから地図で確かめて一番行きやすいところに駆け込みなさい。書いてある紙ある」
 「ある」
使うことはないだろうと思っていた「いざという時の駆け込み先」の本領発揮の時がこんないきさつで来ようとは驚きだった。
 亮介が駆け込み先に選んだ日本共産党の地区委員会に着いたのは8時を回っていたようだ。
 「女の人もいて親切に風呂にも入らせてもらった。3日ぶりに布団にも寝られる。」
と、9時頃電話が入った。安堵した。

 一日おいた5日目の午後電話が入り、何と仙台より一昼夜走り続けもう東京だという。東京の中野区には、鈴子の実家がありそこが目的地でもある。しかし、東京で迷ってしまい中野のおばあちゃんの家にたどり着けないでいるというのだ。話を聞くと、中野区の実家まで後数キロという地点まできていることがわかった。東京の都心を囲むように走っている環状七号線の練馬区の豊玉付近にいるという。本人から実家にSOSを発信し、実家の高校生の甥っ子、豪君が現場に迎えに来てくれることになっているとのことだった。
 そして、夕方5時過ぎ
 「やっと着いたよ」
との電話が入った。
 「すごい。すごい。がんばったね。そうとう疲れたでしょ。今日はゆっくりお風呂に入らせてもらってたっぷり寝るといいね」
 「うん」
70歳になる母が電話口に出た。
 「亮介すごいね。本当にきちゃったよ。たまげたよ。」
 「ちょっと恐い目にも遭ったみたいだけど無事着いて本当によかった」
 「本当だね。真っ黒い顔して元気だよ。東京は今日も暑かったからどこかで倒れてるんじゃないかって心配してたよ」
母の電話の向こうで77歳になる父が、
 「よくやった。よくやった。」
と、孫の快挙を喜こぶ声がとびかっていた。 鈴子は電話を切った後、安堵感と喜びに包まれた。そして、3人の子と地図帳で亮介の走った跡を指で追ってみた。自分たちも一緒に冒険をした気分になった。ちょっと古くなった扇風機がブーンブーンと音をたてながら心地良い風を送ってくれている。窓際の水槽の中で泳ぐ金魚を目で追いながら、17歳の息子の冒険は私自身に突きつけられた親の試練だったなと考えていた。
 「腹へった」の声にせきたてられ鈴子は「すごいすごい無事でよかった」と独り言をいいながら台所にたった。
(「弘前民主文学」126、2006年8月15日)