「弘前民主文学」同人の先輩の励ましで初めて小説に挑戦しました。大変お粗末な処女作ですが、皆さんのご批評をいただければ幸いです。少しでも人に感動を与えることのできる小説を目指し、目下修行中です。(2005年8月)

さくらの木  
 
 畑中みどりは、新宿から昔乗り慣れた京王線の各駅停車に乗り込んだ。この日、高校卒業三十五周年を記念して開かれるクラス会に出席するため弘前から上京していた。
 午後からのクラス会までに、多少の時間があった。みどりは、一度訪ねてみたいと思いつつ、四半世紀もその望みをかなえずに来たやまぶき保育園に立ち寄ってみようと思いたった。その保育園は、上北沢駅から徒歩十分程の所にある。みどりにとってそこは、短大を卒業して初めて「保母」として働いた職場であった。
 土曜日の昼過ぎ、しかも各駅停車ということもあって、電車の中はすいていた。新宿から二、三キロメートル続いた「地下部分」を抜けると、弘前よりも遅れてやってきた秋の日差しが、心地良く車内に差し込んできた。
 みどりは、隣の座席に鞄を置き、身体を窓の外が見えるように横向きにして懐かしい外の景色に見入った。その景色を追いながら、数十年前を思い出していた。

 みどりが社会人として、世田谷区立のやまぶき保育園に就職したのは、1972年のことだ。その頃東京では、働く女性の要求に応え公立の保育園が次々と誕生していた。やまぶき保育園のある世田谷区もそういう状況にあった。
 みどりは学生時代、自治会の執行委員長として、保育学生の権利拡大や、子どもを取り巻く社会問題にも目覚め、運動に積極的にかかわっていた。特に「70年安保」の時代だっただけに、保育学生のみならず、全国学生自治会連合(全学連)に結集した他大学の学生と連帯した運動にも参加した。
そんな経験を経て、みどりはやまぶき保育園で「保母」としての第一歩をスタートさせた。最初に受け持ったクラスは、年長組だった。ベテランの主任「保母」との複数担任で、みどりの保育者としての実践は始まった。

真美ちゃん

 まだその頃、幼児期から自閉症と診断されるような子は少なく、きちんとした診断名もないままの五歳児の真美ちゃんは、とても可愛い女の子であったが、「うー」とか「あー」とか言うだけで、会話は成立しなかった。そして椅子に座っても、足をつっぱらせ、手をくねくねさせるなど自分の世界に入っているかのようだった。時に自分の意にそぐわなかったり、からかわれたりすると、椅子を投げたりして大暴れした。真美ちゃんのお母さんは、彼女を保育園の年長組に入れるまで、ずっとおぶって仕事を続けていたという。だから余計に、真美ちゃんの発達は遅れてしまったのだろう。あの時、真美ちゃんに対し、もっと適切な指導が必要だったのではないか。みどりは、周りの子への危険をくい止めるのが精一杯だった自分を振り返った。

生理休暇取得

 「権利として、与えられている生理休暇を取得すべき」と、ただただ権利意識が頭をもたげ「これを取得するのも大切な闘い」と仲間たちと話し合った。みどりは、まだ新米の一年生「保母」にもかかわらず、意義に燃えて取得を決行した。一日の生理休暇を取り、翌日ふるえる思いで出勤した。「おはようございます。」と事務室に元気を装って入っていった。園長がただ一人の机に向かい、背を向けたまま、待ちかまえているかのようだった。いきなり振り返り「ここに座りなさい」と、威圧的な説教が始まった。その説教は約二時間ほど続いた。現実の社会は、何ときびしいものかと、いやと言うほど思い知らされた。 

慎也くん

 慎也くんのけなげな笑い顔はとてもすてきだった。妹思いの優しい男の子であった。母親と妹と三人、アパートでつつましやかに暮らす母子家庭でもあった。ある時、保育園に緊張が走った。別居中の慎也くんの父親が、子どもたちの居場所を付きとめ、二人の子どもを「引き取る」とやって来たのだ。母親に暴力をふるう父親で、母親はこの夫から身を隠し、ひっそりと暮らしていたのだった。いつも優しい笑顔の慎也くんが、このときは青ざめ、おびえていた。みどりは、子どもと父親が顔を合わせないようにと、二人の子どもを避難させ「大丈夫だよ」と抱きかかえ、用務員室で母親の迎えを待った。しばらくして迎えに来た母親と裏口から、こっそり帰すことに成功し、一件落着したが、今のようにDV防止法により、暴力を振るう男性に対し厳重な罰則が与えられているわけではなかったので、母親はきっと不安を抱えながらのつらい日々だっに違いない。みどりはこうした子どもの置かれている現実に直面し、ただただ驚くばかりだった。

4・4制の闘い

 いつも手厳しい言動で、保母たちを指導していた園長は、公立保育園の管理者として職員をしきり、その手腕を発揮していた。その園長が、次第にみどりに一目おくようになっていった。ちょうどその時、世田谷区職員労働組合の保育園分会は、公立保育園の職員の労働時間を週48時間から週44時間に短縮する運動に取り組んでいた。その取り組みの真っ直中にあった組合に、この園長はみどりを保育園分会の役員として、強力に薦めたのだ。その結果、みどりは組合の書記長として、この運動に取り組むことになった。
 世田谷区職員労働組合保育園分会は、子どもを預ける親の要求と、そこで働く職員の労働条件を、対立的にとらえるのではなく、両方の要求が組み込まれる方法を考え出した。それは、保育時間を変えずに労働時間を短縮する方法として、職員の増員を図りローテーションを組んで保育体制を組むというものだった。これを実現するために、人員増の闘いが粘り強く取り組まれることになった。そして、とうとう30数園あった全園での増員を勝ち取り、労働時間短縮を実現させたのだ。 後にこの方式は「世田谷方式」と呼ばれたものだ。みどりは、この闘いを通して住民の要求をどう実現させるか、という自治体労働者としての自覚を高めていった。この闘いは、東京23区の保育労働者を励まし、同様の闘いが大きく広がることになった。

虐待

 やまぶき保育園は、当時一階部分が保育園で、入り口の違う二、三階部分が母子寮になっていた。保育園の庭からその母子寮のベランダが良く見えた。夕方薄暗くなった冬の日、保育園から家に戻った隣のクラスの四歳児の純くんが、ヒステリックになった母親からそのベランダに真裸にされ、放り出されているのが見えた。しばらく大泣きしている姿が痛々しかった。そんな純くんを助けてあげることができなかった。
 母子寮併設ということもあって、母子寮にに入居しながら、保育園を利用する母子が多かった。中には保護者会の時にお酒の入った赤ら顔でやってきては「あんたは、私を馬鹿にしてるんだろう」とつっかかってくるような母親もあり、若いみどりはうろたえるばかりだった。

 電車の心地良いリズムが忘れていた昔のことを次々に思い出させていた。  
 数十年ぶりに上北沢駅に降り立ち、きょろきょろしながら保育園に向かった。すっかり街の様子が変わっていた。訪れたやまぶき保育園はちょうど午睡の時間だった。土曜日ということもあって、なおさらひっそりしていた。園長先生は留守で、応対に出た保育士が「園の中をご案内しましょうか」と、仕事の手を休めて一階、二階と案内してくれた。建て替えられていた保育園は、すっかり様子が変わっていた。二階部分は0歳から二歳児までの専用で、広いベランダに可愛い遊具がこざっぱりと片付けられていた。
 一階に戻り、あらためて園庭に目をやると、昔のままの桜の木が枝を大きく伸ばして、どっしりとその風格を漂わせていた。みどりが、社会の現実を目の当たりにし、保育労働者として鍛えられていったあの時も、この桜の木はやさしい眼差しでエールを送ってくれていた。そして今日も温かく迎えてくれ「がんばりなさい」と励ましてくれたように感じた。