旅立ち (後編)

                                      
安藤晴美

 裕太の仕事場兼住処は、江東区の千石にあった。
 総武線の錦糸町から、首都高速七号線をくぐり、四つ目通りをまっすぐ二十分程歩いた所だ。
 東京港の新木場に通じる運河が会社のすぐ近くに流れていた。水が流れるというのではなく水が貯まっているという感じで、その中に材木が無造作に投げこまれていた。
 近くにある製材所は、昼間は働く人達が行きかいフォークリフトが忙しそうに動き回り、にぎやかだが、夜は違う空気が流れていた。
 裕太は、この街がどこか異国であるかのように思える時があった。仕事が終わり、数分歩いて着く運河の縁にある緑地帯に来て、空を飛ぶかもめや、誰かが置いていく餌を食べに来る野良猫がいるこの場所が気に入っていた。
 今日も、残った弁当を夕食代わりに食べたあと、外の自動販売機で缶コーヒーを買い、それを飲みながらこの場所に来た。
 仲間をつれて来ていた猫に声をかけ、薄汚れたベンチに坐った。
 ベンチの縁に飲みかけの缶コーヒーを置き、暗くなった空を見上げながら、両手を大きく開いて、空気をいっぱい吸い込んだ。
 曇っていて星は一つも見えなかった。でも、空を見上げたら、小学生の頃、家族で出かけたキャンプ場でみんなで寝ころんで見た流れ星を思い出した。
 遠くで救急車のサイレンが聞こえてくる。
「ガキの頃は楽しかったな。良夫どうしているかな。彼女にふられていないかな。」
 そんなことを考えながらたたずんでいた。
吹く風は生暖かく、半袖のTシャツから伸びた腕にからみついた。
 十分くらいすると、雨がぽつりと降り出してきた。
 梅雨に入り、雨の日が続いていた。
会社のビルの四階にある寮に、小走りで向かった。
「そうだ。久しぶりにうちに電話してみよう」と思った。
「このくらいの時間ならいつも帰りの遅い母も帰っているだろう」
エレベーターで四階に上がり、降りてすぐ左側に、公衆電話がある。
ポケットに手をつっこみ十円玉を三つ入れて、電話をかけた。
「もしもし裕太です。」
 裕太からの電話は久しぶりだった。
「もしもし。ああ裕太か。どうだ。」
と父がでた。
「うん。がんばってらよ。」
 その時ちょうど母春子が帰宅してきた。
「裕太から」
といって恭治から受話器を渡された春子は。
「裕太。仕事どう。慣れてきた」
 母の声と共に居間の鳩時計が九回時を告げた。
 鳩のやさしい鳴き声に、裕太はいいしれぬ懐かしさを感じた。
「うん。仕事は大分慣れてきたけど、めちゃくちゃ大変。一緒に入った同期も2人やめちゃったよ。」
「えっ二人も。そういえば、黒石から一緒に就職した種市君のお母さんからこの間電話あったの。やめたいって言ってるって。心配していたけど。そんなに大変なの」 
「まあね。種市君は違うとこだけどやっぱり大変みたい。」
 十八歳の春A社に就職した裕太は、東京での新生活が始まり、三ヶ月が経過していた。裕太が配属になった仕事場は、八千食の弁当を作り、昼に各オフィスに配達するという弁当産業の一翼を担う部署であった。
 約二週間の研修の間は度々実家に電話を入れ、いきいきと会社のことや自分の配属先のことなどを話していたのだが、今日の裕太の声が少し元気がないように思え、心配になった。
「裕太は大丈夫なの。身体きついんでしょう。朝は何時から仕事につくの」
と矢継ぎ早に聞いた。
「めちゃくちゃ早いんだ。早出の時は、四時から仕事に着く。遅出でも六時から。」
「うわあ。大変だね。」
 春子は、思わず裕太が高校時代、朝起きるのに苦労していたことを、思い出していた。
「そんなに早く起きれるの」
「目覚まし時計二つかけて寝る。でも一回寝坊してまった。」
「そうか。その時どうした」
「先輩が起こしに来てくれた。主任にめちゃくちゃ怒られた。」
「大変だね。身体大変だから早く寝ないとね。」
「そうだね。」
「ところで朝四時から仕事をして何時に終わるの。」
その時通話がとぎれてしまった。
 裕太は、部屋にもどり作りつけの洋服ダンスを開け、バックに入れてあった小銭入れをつかみ、再び公衆電話に向かった。
 十円玉を五枚入れ、もう一度かけ直した。
「ごめん。十円玉なくなってまったんで取りに行ってきた。」
「そうなの。公衆電話なの。電話くらい自由に使えるといいのにね。」
「お母さん。世の中そんなにあまくないよ。」と言った。
 その大人びた口調に、社会に出てもまれていることを感じた。
「それでさ、まだ話せるの」
「うん。大丈夫。さっき五十円分入れたから。」
「それでね。さっきの話にもどるんだけど、朝四時から何時まで仕事なの。」
と聞いた。
「早出と遅出って一応あるんだけど、早出でも次の日の仕込みもやるので、夕方六時から遅いときは八時くらいになることもある。」春子は
「えー」
といいながら、左の指を親指から一本一本折り曲げながら、一日何時間働いているのか数えてみた。
「ちょっと、それひどいんじゃない。十四時間も働いていることになるよ。」
「常識だよ。文句言う人なんかいないよ。」「残業手当とかは出てるの。」
「ちょっとは確か出ているけど全部は出てないと思う。」
「ひどいね。今度給料明細書をちゃんと調べてごらん。」
「そうだね。でもね。お母さん。ここにいたいなら、社長と主任の指示に従わないとって感じだよ。」
「そうなんだ。大変だね。まずは慣れなくちゃあならないことばかりだろうしね。今度ゆっくり話そうね。」
「そうだね。今日はこれで切るよ。」
「わかった。じゃあがんばってね。おやすみなさい。」
「おやすみなさい。」
 雨足が強くなってきたのか、電話の横の窓ガラスに雨粒が時々吹き付け、それが涙の様に垂れていく。そんな様を見ながら、受話器を置いた。
 でも裕太は、ちょっと気持ちが軽くなった感じで、部屋に戻った。その部屋は、わずか三畳の広さで、ガスの設備もない簡単な台所と、備え付けの洋服ダンスが付いているだけのまるでたこ部屋の様な感じで、しかも、相部屋なのである。
 同室の高橋さんは布団の上で雑誌をめくりながら、缶ビールを飲んでいた。裕太は、シャワーを浴びてこようと、用意しておいたバスタオルと着替えそして、衣紋かけに掛けていたタオルを引っ張り、脇に一くくりにしてスリッパを履き部屋を出た。エレベーターの前に立ち、下に行くボタンを押し、エレベーターが上がって来るのを待った。わずか一階から四階まで来るのに時間がかかる。じっと待っていると、エレベーターのドアが開いた。中から、吉岡さんが出てきた。近くのコンビニで買い物をしてきたのか、小さな白いナイロン袋を下げていた。吉岡さんは空いている右手で雨がざあざあふっている仕草をした。裕太はうんうんとうなずき、やだねという顔をした。次ぎに、人差し指で自分を指すと、今度は身体を洗う仕草をしてシャワー室に向かうことを伝えた。吉岡さんは35歳になる聴力障がい者者だ。裕太にいつも明るく接してくれた。裕太は自然と吉岡さんと自己流手話でコミュニケーションを図る様になっていた。裕太はおやすみなさいと言いながら、手でばいばいをして一度閉まってしまったエレベーターのボタンを再び押して乗り込んだ。
 三畳ほどの風呂場で、シャワーを浴びた。勢いよく出るシャワーを頭に掛け、シャワーを一旦止めると、シャンプーをぶしゅっと、頭につけ、両手で泡だらけになった頭をこすりながら、ふと実家を思い出していた。
 自分の六畳の部屋はいつも雑然として汚かったが、落ちつく場所だったこと。時々いらいらすると壁やくず箱にマジックで落書きをしたこと。木の作りつけのベットに敷かれた布団は、シーツも半分はがれ枕のカバーも薄汚れていたけれど、そこに寝そべって、小遣いを貯めて買ったCDラジカセの音楽を聴くのが心地よかったこと。犬のゴンとジョニーを連れての散歩が、何とも楽しく、二匹がいつも大はしゃぎしたこと。
 そんなことを思い出しながら、また、シャワーからお湯を出し、頭の泡を両手でこすりながら流した。何故かシャワーのお湯と一緒に涙があふれていた。  
 身体もきれいにし、一畳ほどのお風呂にざっとつかり、風呂から出た。入れ替わりに、一つ上の先輩が入ってきた。
「お先に入りました。」
と言って着替え、コンクリートの廊下にでた。
 部屋のドアを開けると、豆電球だけになっており、薄暗くなていた。すでに高橋さんは、タオルケットを身体の半分に掛けて寝ていた。 
 裕太は、音をたてないように気を遣い、目覚ましだけをかけて横になった。
 明日は、早番の日だ。三時四十分にセットした。

 翌朝四時五分前には、タイムカードを押して仕事場に着いた。裕太は、白のゴム長靴に、上下の作業着と前掛け、紙袋をふくらませて逆さにしたような白の低い帽子を身につけていた。
 調理場に早番の十人が集まり、主任が前に立ち、
「おはようございます。今日のメニューは唐揚げ、ポテトサラダ、鮭、卵焼き。ご飯には塩ごま、梅干しです。怪我に気ををつけて勧めて下さい。」
と、挨拶した。
 裕太の今日の最初の仕事は、ポテトサラダに使うじゃがいもの皮むきだ。昨日のうちに水洗いは済んでいた。段ボール二つの量のじゃがいもは直径九十センチ程の金ざる三つに山盛りになっていた。
 裕太は直径一メートル程のボールに水を張った。最新の皮むき機にじゃがいものを投入し、皮がむけたじゃがいもが水の中に投げ込まれていく。もう一人の調理師が水に浸かったじゃがいもを取り出し、包丁のお尻を使って、じゃがいもの芽をくりぬいていく。そして水を張った別の大型ボールに投げこんでいく。この作業は延々と二時間続けられた。六時になり、スタッフがそろう。
 それぞれの持ち場で、手際よく調理、作業が続けられる。
 裕太は、じゃがいもを切りそろえ、大型鍋でゆでる作業に移った。
「主任。B作業に移ります。」
「よし。」
と言って、主任はあらかじめ計っておいた塩を水の中に入れる。
 ゆであがったか確かめるために蓋をあける。湯気が一気に裕太の顔にふきつけた。裕太は金串をいくつかのじゃがいもにさし、ゆで上がっているかの確認をする。
 最後に、汁気を一気に飛ばすために強火にし、大きなしゃもじでかき回し、火を止めた。熱いうちに大型ボールに移し替え、つぶし機にセットし、つぶしていく。体力が勝負の作業が続く。額から、汗が噴き出す。首に巻いたタオルで何度となく汗をぬぐう。
 八時になると、パートの女性三十人が配膳室にそろう。ゆっくり動くベルトコンベアーの脇に立った女性たちによって、ご飯、ごま、梅干し、唐揚げ、鮭、ポテトサラダ、ミニトマト、卵焼きなどが詰められていく。弁当が完成していく様は、壮観だ。
 八時になった時、裕太たち早番組が十五分の小休憩に入った。今日はおにぎりと牛乳が用意されていた。休憩室でそれをほおばりゆっくりする間もなく、トイレにも駆け込んだ。
 戦場の様な調理現場はクーラーをかけていても、六月には三十五度近くまで上がり、消耗が激しい。裕太も就職して、五キロも体重が減っていた。
 小休憩後は主任の指示に従い、できあがった調理品を配膳室に運んだり、使用済みの調理器具の洗浄に入ったりした。
 九時半頃になると、できあがった弁当を順にコンテナトラックに積み込む作業に入った。
 駐車場には、ずらっと二十五台のコンテナトラックが待機しており、積み込み安い場所に車を順次移動して作業が行われた。
 裕太は午前十時、前掛けだけを外した出で立ちで、長靴からズックに履き替え、第1陣の車の助手としてコンテナ車に乗り込んだ。
 ベテランの吉崎の運転する横で、申し込み表に書き込まれた会社を知らせ、次々に会社や事業所、町工場を訪ねて行った。
「こんにちは。弁当のA社です。弁当の宅配に参りました。」
「はい。ご苦労様。」
係りの女性がそういって用意してある代金を持ってカウンターにやってきた。
 両手に抱えた風呂敷包みを指定された場所に置き、代金と引き替えに領収書を手渡した。
カウンターの中のサラリーマンの姿が、まぶしく見えた。
 エレベーターがあるところは、比較的楽だが、階段だけの所は、しんどかった。時間の勝負なので、どこでも、駆け足だ。
 渋滞に巻き込まれないように、混まない道を選択して東京の街を走り回る。無線で、会社から数の変更、新たな注文先も随時入ってくる。積んだ弁当を正午までに運びきるのが、二人に課せられた任務なのだ。
 
 今日も、台東区にある二十五カ所の会社や事業所、町工場などに、三百五十の弁当を配達しきった。余裕を持って積んだので、八個が残った。
 一旦会社に戻らずに、適当な場所で、余った弁当を昼食として食べ、弁当の容器の回収に回ることになる。今日は、浅草寺の駐車スペースに車を止めて、昼食をとることにした。
 裕太は、吉崎のお金も預かり近くの自動販売機からお茶を二本買ってきた。そのお茶を飲みながら、寺のベンチで弁当を食べた。
 今日の日差しは暑かった。しかし、大きな銀杏の木が影をつくり、疲れた身体にあたる風が心地良かった。冷たいお茶が身体に染み渡った。
「青木も八月からは、一人でこの配達業務を担うことになるんだぞ。」
と箸でご飯をつまみながら言った。
「えー。そうなんですか。」
裕太は卵焼きをほおばりながら、びっくりして応えた。
「道路がまだよくわからないから、無理ですよ。」
「おれも最初は泣きが入りながら、やったよ。会社の方針だから、いつまでも、二人体制は組まないと考えておいた方がいいと思う。」
唐揚げをかぶりつきながら吉崎は続けた
「これまでの例でいけば、8月からは独り立ちになるんじゃないか。」
「そうなんですか。」
「担当のコースが決まったら、休みの日にでも会社の車借りてコースの地理をつかむといいぞ。」
「そうですね。運転と配達業務全部一人はきついですね。うわー。いきなり不安になっちゃいましたよ。」
そう言ってお茶を飲み干した。
 弁当を食べ終わった吉崎は、車に戻り背もたれを後に下げて仮眠をした。
 裕太も、いきなり眠気が襲ってきた。弁当をわきに置き、ベンチに横になった。
 十五分くらい眠っただろうか。東京の街を走っても走っても行き先が見つからず、パニック状態になっている夢を見て、目が覚めた。
 裕太は
「あー。夢でよかった。」
と思った。

 会社に戻ると、回収した弁当箱の洗浄作業が始まる。
 ゴム手袋をはめ、一旦ざっと洗った弁当箱を洗浄機に並べていく。
ちょっとでも、もたつくと
「何してんだ。」
と怒鳴られる。
「おれが求めた調理人の世界ってこんなもんなのかよ。」
と心のなかで、つぶやきながら必死で弁当箱を洗浄機に並べた。満杯になると、スイッチを押し、中のブラシが回り、洗剤の混ざった水が四方から吹き出し、何回か繰り返され、
そのうち水だけが吹き付けられ、自動的に乾燥に移っていく。終わるとブザーがなり、熱くなった弁当箱を取り出し、一つ一つ汚れが残っていないか確認して、きれいに並べて配膳室に運ぶ。このサイクルを2時間も続けるのだ。
 疲れ切った顔をして、弁当箱を荷台に載せて歩いていると、聴力障がい者の吉岡さんが、肩をぽんとたたき、裕太の背中をさする様になぜ回し、Vサインをして笑顔で見送ってくれた。  

                  
(「弘前民主文学」131、2008年4月15日)