津川武一生誕100年に寄せて

                                     安藤晴美

 津軽の地が生み出した津川武一先生。津軽の民衆の心に今でも深く息づいています。医師として政治家として文学者として大きな偉業を数多く残された津川先生ですが、私は、政治家の端くれとして津軽の人々と交流する機会が数多くあるのですが、「津川先生は、素晴らしいお医者様で本当にお世話になった。」「父が津川先生の大ファンであった」など、計り知れない敬愛の念が人々の心に深く刻まれていることを、その度ごとに知らされるのです。
 「津川先生は、共産党の前に津川党だったんだ」とも言われることがあります。また「なんで津川先生は、素晴らしいお医者様だったのに共産党だったのだろう。」と言う方もあります。しかし、津川先生が日本共産党員として歩んだ生き方こそが「医療を民衆の手に」という医療に対する姿勢を貫くことが出来たのだと思うし、主権在民・戦争反対・男女平等などを命がけで貫いた日本共産党を戦後津軽の地に再建し、県議会議員を経て東北初の代議士として、国会に送り出されたのだと思うのです。又、素晴らしい医師・政治家・文学者であったのは、日本共産党員として貧しい民衆の幸せの為に常にたたかう姿勢があったからこそなのではないでしょうか。
 私が、28年前に弘前の地に来る時に東京在住の父から「弘前というと津川武一というすごい政治家がいるとこだぞ」と教えられてきました。私の父は政治通で政治談義が大好きな人でした。東北初の日本共産党の代議士津川武一氏の活躍ぶりを良く承知していたのです。父の言うとおり津川武一という人は、すごい政治家なんだという事は、引っ越してきて間もなく知ることになりました。それは、津軽の人々の大きな信頼の中で国政選挙に立ち向かう姿を見せていただく機会を得たからです。
 津川武一先生の魅力は次の詩にたっぷりと語られています。
 「忙しければ忙しいなりに 暇なときには暇なりに ひょいっと頭に浮かんでくることがある うっとりするような夢が たくましい希望が やるせない悲しみが それを語ってみたい 書いてみたい やってみたい きっとすばらしい歩みが そこから 生れてくる」
 私は、この詩を読むたびに希望がわいてきます。津川先生がとても忙しい生活の中でも、夢や希望、悲しみを文学に記し、そこから新たな出発を見いだすという姿勢が貫かれているからです。
 私は、津川先生ら先人の作られた道をゆっくりと懸命に、歩んでいこうと思います。
 時には天の上から叱咤激励をして下さい。生誕100年行事を前に亡くなられた妻ショウさんと二人で、どうぞゆっくり夢や希望を語り合ってください。

                       (「弘前民主文学」138、2010年8月15日)