私の2006年


                          安藤晴美

 私の誕生日は1月1日。だから2006年もいつものごとく元旦から1つ年を重ねてスタートを切りました。2006年は54歳の年でした。55歳まであと2ヶ月残っているのですがこの1年をちょっと振り返ってみたいと思います。
 今年は我ながらよく頑張ったなあと思っています。その頑張りは私の人生の1ページであり、もしかしたら一ミリでも歴史を押し進める役割を果たせたかもしれないと自負しています。
 新年早々の1月15日に私が顧問をしている「弘前の小中学校に自校式給食を実現する会」で、新潟県五泉市の日本共産党市会議員いのくま豊氏を招いて市民参画センターで講演会を行いました。2月27日の岩木町相馬村との合併に伴い4月16日に予定されていた市長選に、学校給食の行く末をかけての取り組みでした。合併協議の中で作られた新市計画で、長い間の要求であった中学校給食が実現する計画が打ち出されたのは嬉しかったのですが、何と旧弘前市の小学校の半数の給食と、旧岩木町相馬村で行ってきた自校式給食を廃止しセンターに移行させ、新弘前市の全中学校分の給食も合わせて1万1500食の大給食センター(まさしく工場)を作るという計画でした。是非ともこの計画を断念させ、自校式給食実現を公約する市長を誕生させようと取り組まれました。
 お話をしに来て頂いた、いのくま氏が議員をしている五泉市は、市長選で自校式給食が望ましいとする市長が誕生したことでセンター方式から自校方式へ段階的に切り替えているという画期的な市の一つなのです。大いに学びたいと企画の運びとなりました。
 その後、同会では、4市長候補への公開アンケートに取り組み、四選目をねらう金沢隆候補以外の候補者全員から自校方式が望ましいという回答を得ました。選挙結果新市長に選ばれたのは自校式給食が望ましいと回答した相馬しょう一氏でした。早速新市の市議会一般質問で新市長に給食問題を質したところ「あくまでも自校方式は理想として望ましいが現実はむずかしい」という答弁でがっかりしました。
 結局は新市計画通りの大型給食センター方式で準備が進められることになりましたが、相馬中学校・常磐野小中学校の自校方式は残し、他の学校も父母との話し合いを重視し、理解が得られた段階で移行するという約束をとりつけました。一連の運動で学校給食のあり方について議論を巻き起こし世論を喚起したことに自信を持ち今後の給食に地産地消の精神を根付かせる努力をしたいと考えています。
 3月15日私も代表の一人である「憲法9条つがる女性の会」で「春を呼ぶつどい〜二人が語る平和の大切さ〜」を百石町展示館で開きました。その「二人」とは佐藤初女さん、澤田サタさんで、私と対談する形で進められました。お二人とも共に憲法9条つがる女性の会の賛同者として名を連ねて下さっていました。佐藤初女さんは、食を通じた奉仕活動「森のイスキア」を主宰され、八十歳を越えて今でも世界各国や日本各地を講演で飛び回るお忙しい方ですのでお会いして約束を取り付けるのに多くの時間を要しました。ご自身が青森空襲を体験され「戦争は二度と繰り返さないでほしい」とお話されていたことから、「9条の会」主催での対談をお願いしたところ快く応えてくださいました。
 一方の澤田サタさんは写真家故澤田教一氏夫人として、ベトナム戦争中サイゴンに住んでいた体験や報道カメラマンとして「安全への逃避」でグランプリ、ピュリツァ賞を受賞された夫の生き様を通し、平和への思いを語っていただけたらとお願いし、対談形式ならとお引き受け下さることになりました。このビックなお二人が「平和を語る」企画は予想外の関心の高さで八十人の方々が参加され、用意していた椅子と資料を何度も増やすなどスタッフの皆さんは大忙しでした。語られたお話はとても貴重なもので、佐藤初女さんは青森大空襲の際、病身で子どもをおぶって空襲をのがれて逃げまどった経験を交えて「人や食材など生きる物すべてに尊い命が宿っている。命を奪い、平和を脅かす戦争は二度とあってはならない。」と語られました。
 澤田サタさんは「夫澤田教一は生前、戦争は人間と人間の殺し合いであり残虐と破壊しか残らない。」「ベトナム戦争の澤田と呼ばれるのが嫌でアジアの美しい田園風景を撮りたいと常々語っていた。」と語られました。静かに平和の尊さをかみしめるつどいでした。
 5月21日には、私が事務局長をしていた日本共産党津軽女性後援会で、「今こそ、がんばりどき!女性のつどい」を弘前駅前市民ホールで開きました。一部が総会二部は渋谷和生さんによる津軽三味線と女の子によるかわいい手踊りでにぎやかに始まり「格差社会から連帯社会へ〜女性の運動・日本と世界〜」と題して、日本婦人団体連合会会長の堀江ゆりさんが講演をして下さいました。約九十人の方々が参加されました。
 堀江さんは私の東京時代の友人で「安藤さんの役に立てば」と快く引きうけて下さり東京から駆けつけて下さいました。堀江さんもびっくりしていましたが、地元紙二社と朝日新聞が取り上げてくれました。絶対東京の新聞では考えられないことと感心していました。東奥日報社の記事は「赤旗特派員の夫とともに、ワシントンやモスクワなどで暮らした堀江会長は講演で、国際連合を舞台に、女性差別撤廃に向けた取り組みをビデオで紹介。日本の政策に触れ『米国化が進んでいる。日本をどのようにするのか、考え直さなければならない』とし、犯罪やホームレスの増加など競争社会がもたらす弊害を指摘した。」と報じました。成功のために日本共産党つがる女性後援会役員の皆さんの奮闘があったことを記しておきます。
 次に最大の力が注がれた「長編アニメ映画・戦後六〇年記念作品 あした元気にな〜れ! 〜半分のさつまいも〜」の上映会を「憲法9条つがる女性の会」で7月16日に開催しました。半年以上前から実行委員会を作り準備を重ねての上映会で当日は、3回の上映で581人の入場者を迎えました。会場でのアンケートでは168人(うち小学生32人)から回答が寄せられ、「とても良かった」が108人、「良かった」が40人、「まあまあ」が12人という結果でした。そして「せんそうはしてはならないです。かんどうしました。」(男性・小学生)「カヨコの姿に胸を打たれました。今もイラクやパレスチナで戦争の火が上がっている。九条を守りたい。」(女性・四十代)「忘れようとしていたものを失うところでした。大事なものは物や形ではないことを知りました。」(男性・五十代)など多数の感想も寄せられました。原作者の海老名香葉子さんのメッセージ「あの日から六十年の歳月が流れました。当時小学校五年生の私が家族六人の死を報らされ、すぐ上の兄とは離ればなれの戦災孤児となったのです。幼いながら生きる戦いが始まりました。どんな苦境に立とうが親の愛を受けて育った者は、曲がらずに一生懸命明るく生きようと思えたのです。この映画は、命の尊さを伝え、強く生きる子どもたちを描いています。二度と痛ましい戦争がなきよう映画の中のかよ子と共に願い続けるのです。永遠の平和を。」が、私たちの心にしっかり伝わりました。中心になって頑張って下さった川越誠子さん、神田富恵さん、佐々木暢子さんに改めて感謝いたします。
 そしてこの秋、10月20日には「憲法9条つがる女性の会 2周年のつどい」を開きました。内容は「つがるをうたう シャンソンの調べ 秋田漣さん」と「九条の会全国交流集会ビデオ上映 〜澤地久枝さん、三木睦子さん、小田実さんのお話〜」というもので、一〇〇人のお客様でいっぱいになりました。漣さんが歌われた“ふるさとの山”や“私たちの生まれた土地(くに)津軽”は津軽が平和ですてきな町であり続けてほしいとの思いを強くし、反戦歌のシャンソン“泣く友をみぬ”は、人が一番悲しむときは友を戦いでなくすとき”と切なく胸があつくなる歌声でした。大きな画面に映し出された九条の会代表であるご高齢の三氏の訴えは臨場感あふれ、憲法を変えさせてはならぬの思いを強くするものでした。そしてそのあと感想を出し合うコーナーでは、「漣さんの歌に感動した」という声や「九条を守るために一緒に力を出したい」など会場が一つになり、とても華やかで心温まるすてきな二周年のつどいになりました。秋田漣さんからも「すてきなつどいで歌わせてもらって感激しています。やって良かったです。」と言って頂きました。これからも「何でもいい。おおげさなことをしなくてもとにかく声を上げ続けること」という澤地久枝さんの声を受け、しなやかに一歩一歩9条を守る運動を続けていきたいと思います。
 というわけで、今年はこんな企画が組めたらいいなと思っていたことが、仲間の皆さんと力を合わせることで一つ一つ実現させることができました。
 一度しかない54歳のこの時に出会えた皆さんとのつながりを大切に、平和で誰もがみな安心して暮らせる世の中を作るために新たな一歩を踏み出したいと思います。
(「弘前民主文学」127、2006年12月15日)