旅立ち (前編)

                                      
安藤晴美


 青木裕太が高校を卒業し弘前の実家から就職のため東京に向かったのは、2000年3月の終わりのことだ。
 春がそこまできているものの道路の端には、まだうず高く雪が積もっていた。雪の表面は薄黒く汚れ、雪解けした路面から秋に散った落ち葉がいくつもぬれて顔を出していた。
 裕太の上2人の兄はまだ大学生で、それぞれ長野、大阪に住み親元から離れて暮らしていた。裕太は両親から進学も勧められたが、自分で早く稼ぎ自立する道を選択した。裕太と一緒にこの春高校を卒業する、中学時代からの仲間たちの多くが、社会人への道を選択したことも影響していたかもしれない。
 しかし、母親の春子は上の2人が親元から離れ大学に通っていたため、経済的にはかなり苦しく裕太にも進学を勧めたものの、日頃から節約を強いる日々であったため、進学をあきらめたのではないかと心配する向きもあった。
 しかし、就職の道も厳しい現実が横たわっていた。数年前から就職難の嵐が吹き荒れ、裕太が通っていた青森市にある私立Y高校でも、就職を希望する卒業生の就職率100%をめざして必死だった。Y高校は普通科の他に裕太の通った調理科そして自動車科,情報処理科、建築デザイン科などがあり、各々の専門性を生かした進路や就職先が決まるよう懇切丁寧な指導が行われていた。
 調理科に入り調理師の免許を取得した裕太は、就職指導の先生から性格なども考えた上でのアドバイスを受け、いくつかの会社のパンフレットを家に持ち帰り、両親と相談して受ける会社を決めた。裕太は、両親と弟そして友達のいる地元に残るか、それとも東京に出て新しい世界の中で自立していくか随分迷ったが、東京に出ようと決心していた。
 新しい自分を発見したかったのかもしれない。 
 11月弘前市にあるSホテルで、裕太の選んだ会社の就職試験が行われた。裕太は緊張して筆記試験と面接に臨んだ。面接は、何度か学校で練習していたが、不安だった。
 Sホテルの5階が指定された会場だった。初日は面接だった。二部屋用意されており、部屋の入り口にA社面接会場と書かれた案内板が立て掛けられていた。そしてその入り口で紺色のスーツを着た女性がテーブルの上に名簿を広げ、氏名の確認をしていた。ほっそりした都会的なセンスを感じる女性だった。
 控室と書かれた部屋で待つように言われ、中に入るとすでに5人が椅子に腰掛けて待っていた。午後1時の予定時刻までに19人が、そして5分程遅れて来た1人を合わせ計20人が、採用枠5人を目指して試験に臨むことになった。3人はスーツを着ていたが、あとは裕太も含め制服姿だった。名前を呼ばれた順に隣の部屋に行って面接を受けた。
 中に入ると2人の男性が、横長の白いクロスの掛かったテーブルに腕を載せ、男性たちと2メートルくらい離れた所に椅子が置いてあり、そこに座って質問に答えた。
 ダブルの背広を着た40代の男性が質問をしてきた。
「あなたの自己紹介をして下さい。」
といきなり言われた。
「青森Y高校3年青木裕太です。弘前市花園町に住んでいます。兄弟は男4人の3番目です。運動はテニス、卓球が得意です。」
と、はきはき答えた。その後、4問程の質問が続いた。
 面接の練習でたたき込まれた、「当社を選んだ理由は」の問いには、
「A社の将来性と自分の可能性を試すことができる、信頼性の高い会社だと思ったからです。」
と、ちょっとどぎまぎしながら答えた。
 翌日、同じ会場で筆記試験が行われた。裕太は思ったほど難しい問題ではなかったことにほっとしていた。しかし、4倍の狭き門という現実の中で、裕太は少々たじろいでいた。
 
 試験に臨んだその会社から通知が届いたのは、試験が行われてから数週間後の12月も半ばに差し掛かっていた頃であった。
 その日は、春子が夜の会議もあり、いつもよりは少し早めに家に戻った。夕飯の支度をしてから、又出かけなければならない。玄関の鍵を開け、郵便受けに挟まっていた会社からの封筒を手にした。 
 春子は
(来たな)
と思った。封を開けずにリビングのテーブルに置いた。
 その時、リビングの南側のグッピーが泳ぐ水槽の上に掛けてある鳩時計が、鳴き始めた。
「ほっほーほっほーほっほーほっほーほっほーほっほー」
いつも変わらぬやわらかな音色で6回時を告げた。
 春子は着替えもせず、割烹着を着けただけで、夕食の支度を始めた。今日届いた産直の中からゴボウを2本取り出し、水道の水を流しながらたわしで洗い、まな板の上で包丁の背を使って皮をそぎ始めた。それからまもなく裕太が学校から帰ってきた。
 春子は
「お帰りなさい。テーブルに人生を左右するA社からの手紙が来てるよ」
と声をかけた。
 裕太は、指先が開いている緑色の手袋をはずしながら部屋に入って来て
「わあ。とうとう来たか。こっうぇなあ。」
とテーブルの上にある封筒を目で確認してから、手袋をポケットにつっこみコートを脱いで、また廊下に出ていった。
 コートをしまった裕太が再びリビングに戻り、テーブルの上にある大きな封筒を手にし、文具入れの中からはさみを取り出しぎゅっぎゅっと封筒の上を細く切った。細く切られた紙の切れ端が床にひらっと落ちた。はさみをテーブルにおき、封筒の中に細い指を突っ込み白い紙を取り出した。
 春子の顔を見てから、その白い紙を開いた。
 思わず裕太が叫んだ。
「内定しましたって書いてらや。やったあ。」
 やはり就職試験の合否の通知であった。そばで一部始終を見ていた春子が
「ああー良かった。おめでとう。すごいすごい。良かったね。」
 裕太が少し照れながら
「ありがとさん。これで、現実からもう逃げられないな。」
とつぶやいた。
裕太は立ち上がり、日課になっている熱帯魚の明かりをつけ、餌を手でつまんで水面に投げ込んだ。
「おまえら。いいな。ここで泳いでいればいいんだから。」
と、きれいなひれをゆらゆら動かしながら、勢いよく餌に食らいつくグッピーの様子をみつめながらつぶやいた。

 裕太の就職が決まったA社は、社員食堂や学校給食、弁当配送など幅広く飲食業務を展開する中堅の会社であった。
 裕太は、中学生の頃から調理人になる夢を抱いていた。春子は、裕太の食のセンスは幼少期から芽生え始めていたかも知れないと思うことがある。当時忙しく、こども劇場や市民生協、新日本婦人の会などの活動をしていた春子が夕方遅く家に戻ると、お腹をすかした裕太が手際よくパンにジャムをぬりサンドイッチを作っては、友達や弟と一緒に食べていたということがあった。その手際良さにまるで、小さなコックさんを見ているようだとえらく感心してしまった。
 (ご飯の前にかってに)と怒るよりもその様がなんともこっけいであった。
 裕太が中学1年生になった時、春子が周囲の方たちに押され大変な選挙活動を経て地元の市議会議員になった。裕太はやたら忙しい母親をもつことになった。その忙しさは半端なものではなかった。しかし、家事全般を父も協力していたし、裕太や弟も茶碗洗いや風呂掃除などを手伝っていた。
 春子の議員生活2年目の時、大学の教員をしている父恭治が内地留学で茨城県つくば市の大学で10ヶ月間仕事をすることになった。お手伝いさんでも頼まなくてはならないかと春子は真剣に考え、隆次が出発する2〜3週間前の、3月のある晩。テーブルで「腹へった。」といいながら、夜食を口にしていた裕太に相談した。
「お母さんね夕飯の支度出来ない時が出てくると思うけど、どうしようか。思い切ってよその人に作りに来てもらおうか。」
すると裕太は、あまり間をおくことなく
「いいよ。ぼくが作ってあげるよ。」
というのだ。春子は思いがけない裕太の反応に感動した。テニス部で活躍していた中2の裕太にどれくらい頼れるものか不安はあったが、とにかく春子が夕食の支度ができない時は裕太に頼むことになった。
「うわー。お母さんうれしいな。それじゃあ作ってくれたときは、アルバイト料を払うことにするね。一回200円というのはどう」
「うん。いいよ」
こうして母親に代わり、裕太が時々夕食づくりをしてくれるようになった。対面式の台所に立つ裕太の姿はなかなか堂にいっていた。そのお料理の出来ばいはというと、それが驚くほど美味しかった。そのお料理のセンスはなかなかのものでレストランの食事のようであった。
 つくばから月に一度程帰ってくる父隆次も、その出来ばいに大いに感心していた。
「やるな。裕太大したものだ。どこで覚えてきたの」
と言いながら一度テーブルに着いたものの、また立ち上がって引きだしからカメラを取り出し、
「これは記録写真を撮っておかなくちゃな」と言いながら皿の中の料理をいくつかの角度からシャッターをきった。
 料理の中身はフランス料理風裕太式創作料理であった。スパゲティーやチャーハンも手際よく作ってくれた。家にある食材で形あるものを美味しく作るのであるから、母親もそしてたまに台所にたつ父親も顔負けであった。
料理のセンスでは、父親や母親をしのいでいた。
 そんな裕太が中学3年生になり進路を決める時がやって来たとき、「将来は北海道で牧場をもちレストランを経営したい」などと夢を語り、「将来は調理人になりたい」と言うようになった。そして、自ら調理師の免許を取れる青森市の私立Y高校を探してきた。自分で選んだ道を歩くのがベストと考えていた春子と恭治は応援することにした。
 
 そして、三年間青森市の学校まで片道約1時間半の道のりを通い続けた。学校の送迎バスが色々な市を回って行くため、時間を要した。始発となる弘前Sホテルの路地裏から朝6時半にバスに乗り込み、高校に向かった。帰りも定時に学校を出発し弘前に戻ってきた。朝早いので、裕太もそして朝ご飯を食べさせ、弁当を持たせる親もそれまでの生活時間を早めての格闘だった。冬は出発地点まで、春子か恭治が車で送った。
 そうして頑張って通い続けて勉強し、調理師の免許を取得したのだ。
 いよいよ社会人としての巣立ちの時が来た。
 3年間の高校生活を経て、現実的な就職先の選択が迫られ、裕太は
「調理の仕事はしたい。でも、若いから他の世界も見たいし、遊びたい。だから、日曜日は休めるところがいい。」
そういってその条件にあてはまる会社に就職が決まったのだ。
 2000年の春、東京に出発の前夜
「僕ちょっと後悔してるかな。弘前に就職すればよかったかな。」
 バックに荷物を詰めながら、裕太はぽつんとつぶやいた。
 夕食の後かたづけを済ませた春子が、置き薬の箱をテーブルに持ち出し、裕太に持っていかせようと薬を見繕いながら、
「不安だよね。でもさみしくなったり困ったことがあったら、おばあちゃんの所に行けばいいよ。がんばって」と励ました。春子の実家が東京の中野区で、寮生活をすることになっていた裕太の会社と寮が併設されているその会社は、江戸川区にあり、電車を乗り継いで約1時間程の距離であった。しかし、いざという時は春子の母や同居している兄夫婦、従兄弟たちがいるという安心感があった。
 しかし、調理人になる夢の第一歩の旅立ちのその日。未知の世界に飛び込む裕太の不安の色は隠せなかった。
 朝食を済ませ8時に裕太の友達良夫が、飛行場まで送ってくれるといって、お兄さんの赤い軽自動車を借りて、迎えに来てくれた。裕太と良夫は中学時代からの大の親友だ。車の免許も一緒に自動車学校に通い取得していた。
 カメラを片手に玄関から出てきた隆次が「さあ、旅立ちの記念に写真を撮ろう。」
と言って玄関先で、初めに裕太一人の写真を、次に良夫と二人の写真を撮った。そして今度裕太を真ん中にして春子、恭治、高校1年になった弟の4人の写真を良夫に撮ってもらった。
 コートも着ずに出てきた見送り組は、寒さで芯まで冷えかかってきた。裕太は車の後部座席に紺色の大きなバックと紙袋を積み込み、ドアをバタンと閉めると、いきなり庭に駆けて行き愛犬のジョーとゴンの頭を
「元気でな」
といいながらなでまわし、駆け足で戻ってきて助手席に乗り込んだ。
 良夫は
「いいですか。行きますよ。」
とみんなに声をかけた。
小さな赤い車に大きなバックと、若い二人の大きな体がすっぽりと車に収まり、助手席の窓を開けた裕太が
「いってきます。」
と言ったのと同時に車がゆっくり動き出した。
春子は
「行ってらっしゃい。元気でがんばって。」
恭治も
「身体に気をつけてな」
と手を振りながら言った。ただ黙って立っていた弟も手をふった。春子は涙がこぼれそうなのを必死でこらえた。
 徐々にスピードをあげて赤い車は、向かいの特別養護老人ホームの低い塀にそって植えられたまさきの木に沿ってまっすぐ走り出した。10時発の飛行機に乗るため、青森空港に向かった。
 車が見えなくなるまで手を振った。
「いっちゃったね。」
と春子がつぶやいた。
「そうだね。我が家の息子自立への旅立ち第1号だね。」
と隆次が答えた。空を見上げると、屋根まで大きく育った白いこぶしの花が、枝にいっぱい咲き誇り、まぶしく輝いて見えた。

(「弘前民主文学」130、2007年12月15日)