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ほっとタイム  

  (2009−2012年)
                            

2012・8・12 67年目の夏


 アメリカが広島・長崎に原爆を投下してから67年が経ちました。広島では一瞬のうちに14万人以上、長崎では7万3千人以上の命が奪われました。かろうじて助かった人たちも、その後原爆症で苦しみ、毎年多くの方々が亡くなられています。残念なことに今も尚、原爆症認定申請が却下され救済措置から外されている人たちがいます。国は、被爆者の切実な訴えに応え、原爆症認定制度を抜本的に改善し、国家補償による被爆者援護を一刻も早く実現させるべきです。

 日本が起こした侵略戦争は、日本人310万人、アジア人2000万人の尊い命を奪い、1945年8月15日終戦を迎えました。

 「革新懇ニュース」(8月10日)の記事『衛生兵としての加害体験』は戦争の残虐さの一端を教えています。衛生兵になるための授業で、200人の教育兵の前で中国人捕虜を生きたまま麻酔をかけて生体解剖したというのです。軍医が手にした心臓は動いていたといいます。

 8月2日NHKで放映された「証言記録 日本人の戦争後編・絶望の1年」でも、90歳前後の元兵士達が涙を流し、戦地で人を殺した体験、特攻隊で部下を亡くした体験そして飢餓体験など、戦争の悲惨さむごさを語っていました。

 この愚かな戦争を経て手にした日本の平和憲法を、しっかり守り後世に引き継いでいきたい。敗戦後67年目の夏この思いを新たにしています。


2012・7・08 咲人


 青春時代ユニークな「自分探し」を続けたわが家の四男がこの程男の赤ちゃんの父親になりました。感慨深いものがあります。

 「周りにたくさんの笑顔がある人生に。持ってる種が開花できるように(しっかり見守るという親としての決意も込めて) 安藤咲人(さくと)と名付けました」とインターネット上の日記に喜び一杯の決意が書き込まれていました。

 私たちもそうであったように「子育て」は、親として人間として成長させてもらえるかけがえのない子どもからのプレゼントです。子宝に恵まれないご夫婦も多い中、親になる幸せを噛みしめながら子どもの成長を見守ってほしいと思います。

 私たち夫婦にとって咲人は四人目の孫となります。この子が成人になる日まで元気に過ごしていけるよう健康に留意していきたいと思います。

 そして、その頃には原発がすべて廃止され、自然エネルギー中心に電力がまかなわれていることを望みます。

 咲人が生まれた時、大飯原発再稼働反対を訴える20万人による官邸包囲が起こったこと、原発ゼロの運動に「バ〜バ」も頑張ったことなど、二十歳になった彼に語ってあげたいと思います。


2012・6・10 豊かな青森


 先日農林水産委員会の調査で三八地域と上北地域を訪れました。

 前半は、昨年の大震災で被災し研究資材もすべてやられた食品総合研究所、船が流された三沢漁港、パイプハウスが被災したイチゴ生産ほ場、多数のクロマツ植栽が流された海岸防災林造成地などの復興状況を視察しました。どこも当時の津波の恐ろしい体験が生々しく語られ命からがら逃げ助かったと話されました。復興事業が進みどこも落ち着きを取り戻していることに安堵しました。

 後半訪れた農家のかっちゃたちの起業による倉石の農産加工組織「カマラードの家」は、大成功を遂げていました。JAおいらせの「長芋洗浄選果施設」は、最新式でした。観光農園「アグリの里おいらせ」は、苺やバナナ・パイナップルハウスの燃料を間伐材など無料で提供を受けた木質バイオマスを活用し、農園レストラン・農産物直売所を始め、障害者の雇用を進めるなど、優れた経営と夢のある事業にただただ感心しました。内水面研究所では、ニジマスやヒメマスなど養殖魚の研究の様子を見てきました。

 青森県は海・森・川・大地の豊かな農水産物が盛りだくさん。原発・核燃・米軍基地はいらない。平和で安心・安全な青森県であってこそ、より価値が高まるのではないでしょうか。


2012・5・20 被災地

 5月の連休に宮古市を訪れました。被災地の現状はどうなっているのか自分の目で確かめたかったためです。津波で一階が全滅し、二階以上で営業を続けているホテルに泊まりました。

 周辺を散策してみました。家が流され土台だけの変わり果てた住宅地が広がっていました。年配の男性が「ここの一画だけで十三人が亡くなった。自分の親戚も田老地区で大勢亡くした。明治と昭和に津波の経験をした田老地区では最初浜の近くに住む人はなかったが、10bの堤防ができ大丈夫だからと一軒が家を建てたら見る見る間に増えていった」と教えてくれました。

 翌日田老地区にも足を運びました。ここでは200人が亡くなったそうです。流された民宿の跡地にプレハブのお土産店を開いているご夫婦に出会いました。「怒り疲れた」「合併が悲劇を大きくした」「停電しても防災無線を使う方法を知る田老町の元職員がいなくなり、避難指示が徹底されなかった」と言うのです。

 以前家族で訪れた浄土ヶ浜では、山の木々はなぎ倒され、海岸付近の建物は改修中でした。ボランティアの人が「皆さんにお土産をたくさん買って頂きたいのですが、売店がすべて流されました。ぜひ又来て下さい。」と優しい地元言葉で話されました。みんなで復興に向け頑張る姿に胸がジーンと来ました。


2012・4・22 職場復帰 

 4年前の夏。一人の女性が「不当な言いがかりで勤めていた弘前の土地改良区を懲戒解雇された。」と、「はるみ事務所」に相談に訪れました。初めてお会いする方でした。

 労働問題に詳しい中弘南黒地区労働組合総連合(地区労連)をご紹介しました。地区労連の勧めで彼女は、一人でも入れる組合「ひだまりユニオン」に加入しました。そして不当な解雇撤回を求めて裁判で闘うことになりました。最初は本当に不安そうな表情でしたが、「支援する会」もでき、多くの人が支える中で闘いは始まりました。

 長い闘いの末、昨年9月に地裁弘前支部が懲戒解雇無効との判決を下しました。しかし、改良区はそれを不服として控訴したために、今度は高裁秋田支部で争うことになりました。

 今年の3月高裁秋田支部がお茶を出す出さないを解雇理由にしていることを批判し、すべての解雇理由をしりぞけ控訴を棄却したそうです。この4月、四年ぶりに職場復帰が実現しました。

 納得いかないことには筋を通して頑張るその姿に敬服します。ここの改良区は他にも働いていた女性から裁判で訴えられて敗訴したとか。不当な扱いに毅然と闘ったことが民主的な改良区への第一歩となることを強く望みます。


 2012・3・18 3・11

 東日本大震災、東京電力福島第一原発事故が起きた3月11日から一年が経ちました。この震災の犠牲者・行方不明者は1万9千人におよんでいます。心から哀悼の意を表します。

 千年に一度といわれる大地震と大津波は、亡くなった方々、そして生き延びた方々の幸せな日常を奪ってしまいました。時が経つに連れ深い悲しみが押し寄せてきていることでしょう。その悲しみが少しでも軽減できるよう、明日への希望につながる支援の手が届くよう願わずにいられません。

 青森で開かれた「3・11さようなら原発・核燃青森県民集会」には、1730人が集い大成功を収めました。かつて80年代に青森県に広がった核燃反対運動を恐れた事業者や国がお金をばらまいて、その運動を押さえてきたことについて、先日テレビのインタビューに県の元幹部が答えていました。今も札束攻勢は続いています。しかし、チェルノブイリに続いて起きた福島原発事故が県民の闘いののろしに再び火をつけました。金と良心の綱引きにみんなで参加し、放射能から子どもと故郷を守るために力を合わていきましょう。


2012・ 2・16
 「「カーネーション」  

  朝の連続ドラマ「カーネーション」の主人公糸子の姿は、とても潔くちょっと滑稽で次の展開が楽しみになるドラマです。と同時にあの大阪弁の小気味よさにはつい引き込まれてしまいます。

 さて先日「介護保険制度の学習会」に大阪弁で語るお二人の講師が来られました。大阪社会保障推進協議会事務局長寺内さんと、同協議会よりよい介護をめざすケアマネージャー・ヘルパーの会事務局長内海さんです。お二人の話は、「小気味よさと驚き」一杯でした。大阪のおっちゃん・おばちゃんは介護保険にはだまっていない。市役所にくってかかっていく。「こんな高い保険料払えるかいな・・」と。そしてその怒りを運動にして大阪府内43自治体中34自治体で独自減免制度を勝ちとったり、府にサービスの内容を改善させて来たそうです。その運動(たたかい)の主人公は介護保険制度で苦しめられている利用者とヘルパーだと言い切りました。

 今年の4月は、第5回目の介護保険料改訂の時を迎え、弘前市は県内10市で最高基準月額6170円案を示しました。「なんぼ高いんだべ。払えるわけないっきゃ!」さあ、大阪に負けていられません。


2012・ 1・22
 年女  

  総務省がまとめた一月一日現在の人口推計によると、今年の干支である辰年生まれの人口は1022万人、総人口に占める割合は8・0%で十二支の中では三番目に少ないそうです。

 出生年別では第一次ベビーブーム直後の1952年生まれと第二次ベビーブーム直後の76年生まれが最も多いということで、私も52年生まれです。それも母が四人目の子をお腹にかかえ忙しくしていたであろう元旦生まれです。52年組には三浦友和、中島みゆき、桃井かおり、さだまさしなど芸能界で活躍されている方々も勢揃い。心打つコロッケさんの歌う『いのちの理由』の作詞作曲を手掛けたのがさだまさしさんと知ってちょっと嬉しい気分になりました。

 辰年の特徴は「正義感と信用」だそうです。どこかの政権のように、国民受けする、出まかせを一杯言ってすべて裏切るような政治に審判を下す年にしたいものです。正真正銘の「正義感と信用」を旗印に九十年間歩んできた日本共産党の議員として県民の皆さんの声をしっかり受け止めて頑張っていきたいと思います。


2011・12・18
 素敵なプレゼント  

  3・11 の未曾有の大災害でたくさんの命が失われた2011年も暮れようとしています。家が流されたり、身内の方や友を無くしたり、また、放射能汚染から避難生活を余儀なくされたり、本当につらい日々を送っている方が大勢おられると思いますが、心が癒える日が一日も早く訪れるよう心から願っています。

 この寒い冬に素敵なプレゼントを頂きました。一つは相談者の方が、亡くなった夫さんのセーターをほどいた毛糸で編んだという靴下。もう一つは、十七年間続けている朝の街頭宣伝の場所で、近くに住む方が届けて下さった渋抜きをしたという柿。どちらも心のこもったプレゼントで心がほっとしました。

 また、11月14日に三男夫婦の所に誕生した孫「結菜・ゆうな」に、議会が終わった先週末に会いに行けたこと、その近くで次男が働く整体治療院で、息子に整体してもらったこともほっとする材料となりました。

 すみやかな復興を求め、TPP、税と社会保障の一体改革を許さず、政治が真に国民の幸せのためになるよう来年も一層頑張ってまいります。


2011・11・13
 727(セブンツーセブン)  

  
 十月十六日に行った「憲法9条つがる女性の会」のイベントは、約50人の方々が集い心温まる素敵な会となりました。

 前半の727(セブンツーセブン)の演奏と歌は、みんなの心を「ほっと」にしてくれました。727は元養護学校の先生と知的障害のある青年のバンドです。音楽の授業をしていた時に、ドラムに大変興味を持った生徒があり、教えてあげたらすっかり腕を上げ、先生がギターを弾きうたを歌うコンビができあがったそうです。お二人が同じ誕生日の7月27日ということで「727」というバンド名に。時々要請に応じて演奏活動を続けています。

 先生の温かな歌声とトーク、子どもへの眼差しが何とも言えず素敵でした。この日も、先生を慕う生徒さん親子が大勢いらしていました。

 もう一つ、可愛く花を添えてくれたのが「歌姫」と紹介された養護学校小学部の二人のダウン症の女の子。笑顔で踊りも歌も上手で拍手喝采でした。みなさん本当にありがとうございました。

 後半の「障害者と憲法9条」の話(講師・安藤房治)によれば、戦時下「戦争に役立たない障害者」がひどい目に遭ってきたこと、ナチスドイツはユダヤ人の虐殺の前に障害者をガス室に送り込み数万人を殺した歴史があったそうです。戦争は多くの障害者を生み出すこと、平和を守り障害者も一人の人間として安心して暮らせる社会にするためにも憲法が大切であることを語ってくれました。

2011・10・23
 輝く才能  

 過日、障害者の皆さんにピアノを指導している先生方の研究会と障害者によるコンサートが弘前で開かれ、参加させて頂きました。

 ハンディのある子どもさん達にピアノを指導している弘前の桜庭由美先生のお話は、あふれる愛情と暖かく寄り添いながら指導してきた様子を知り感心しました。ハンディを乗り越え、楽しそうに、そして真剣にピアノを弾く姿に感動しっぱなしでした。特に、招待演奏者の演奏はただただ素晴らしかったです。ペダルが踏めないため特別に開発された装置を口で吹いて演奏された車椅子の女性ピアニスト。左手の指が欠損している女子中学生。補聴器無しでは全く聞こえないという難聴の青年。美しいピアノの音色に聴きほれました。

 才能があるとはいえ、日頃の練習にどれだけ努力されていることか。そして、それを支えているご家族と指導者のご苦労はさぞ大きいことでしょう。こうした方々の才能を暖かく応援できる社会にしていきたいと強く思いました。


2011・09・13
 幸せなひととき  

 8月の下旬幸せな一時を過ごしました。

 遠く離れて暮らすわが家の家族が一同に会し、私たち夫婦の結婚三十五周年記念と、数ヶ月早い私の還暦祝いをまとめて行ってくれたのです。集まった場所は、全員が集まりやすい兵庫県有馬温泉。豊臣秀吉もお気に入りの温泉地だったそうです。その地で、四組の息子夫婦と二人の孫が、数々のサプライズを交えて楽しく祝ってくれました。

 さて、翌日は大阪で三男夫婦の結婚式が行われました。 お相手は大阪のお嬢さん。昨年結婚した4男の妻の友人です。出逢いをつくってくれた娘に母として感謝です。全国から来て下さった二人の友人や親戚たち、そして、職場の方々に囲まれ素敵な結婚式となりました。

 息子四人全員が良き伴侶に恵まれ、娘が四人もできたこと、若者の四人に一人は結婚できない時代といわれる中で十分な稼ぎでない息子たちが、共に苦楽を分かち合える人とめぐり逢えたことは大きな喜びです。

 若者たちが夢や希望をもって歩める社会であってほしいとつくづく思います。


2011・08・13
 安全神話
    
 原発の「安全神話」の背景には、権力とお金を使って信じ込ませる体制がありました。

 七月末の『週刊文春』に、こんな記事が載りました。東北電力(株)が創業以来五十年にわたって、青森県議会議長三十一人、宮城県議会議長二十五人、福島県議会議長二十一人計七十七人を、東北電力の取締役につかせ、月一回仙台での会議に出席するだけで、月二十万円の報酬を渡していたというのです。その体制は二〇〇一年まで続いたそうです。各々の県の原発・核燃政策を容認する県議会にするためにこうした姑息なこともしてきたのです。

 ちなみに、この問題は当時日本共産党の諏訪益一県議が総務常任委員会で追及しており、今度の記事を書いたジャーナリスの目に留まり取材が始まったようです。

 福島原発の設置自治体町長の家も津波に流され、捜索の中で町長の物と思われる金庫が見つかったそうですが、その中には5億円もの大金が入っており、町の人達の間で「原発がらみのお金ではないか」と噂になっているそうです。「金」というあめ玉と、「絶対に事故は起きない」という「安全神話」にあやつられた結果、今回の大事故につながりました。

 真の安全・安心を手に入れるために「原発から撤退し、自然エネルギーへの転換を求める」議論を起こしていきましよう。


2011・07・23
 なでしこジャパン
  
 サッカー女子ワールドカップ(W杯)ドイツ大会で「なでしこジャパン」日本代表が優勝しました。特別にサッカーファンというわけではないのですが、あきらめずに最後までチームみんなで頑張っていた姿には、何ともすがすがしく感動を覚えました。

 監督は、準優勝戦の前に檄を飛ばすのではなく東日本大震災の被災地の様子を、選手たちにあらためて見せ、被災地日本への思いを一つにした、とニュースで紹介されていました。そんな監督の思いが静かに熱く優勝にまで導いたのでしょう。この結果は、何より被災された方々や福島原発事故で苦しんでいる皆さん、そしてこの状況の打開と復興を願っているすべての日本人に大きな励みとなったと思います。私も励まされた一人です。

 日本共産党は7月15日に89回目の創立記念日を迎えました。女性に選挙権もない時代に男女平等や戦争反対を掲げての創立でした。激しい弾圧の嵐が吹き荒れました。今、女性が全力疾走してボールを蹴り合うサッカーに情熱を注げる時代が来たことに万感の思いがつのります。 

 ちなみに「なでしこ」には、ヤマトナデシコの異名があり 「撫でし子」と語意が通じることから、しばしば子どもや女性にたとえられ、和歌などに多く歌われてきたのだそうです。 ナデシコの花は「曖昧さ回避」が花言葉のようです。まさしくぴったりの名前です。

2011・06・19 バラの季節

 今年も又バラがきれいに咲く季節となりました。今年は、蕾が元気に開くだろうかといつもの年よりも気になってその時を待ちました。というのは、植木屋さんに庭にいつもかけてもらっている薬を今年は「かけない」と決断し迎えた春なのでした。

 昨年、無農薬でりんごづくりをしている木村秋則さんの園地を見たり、苦悩したあげくりんごの園地づくりに成功した話を聞いて、触発されたのです。

 さて、薬をかけずにどうなるかと思っていたところ、早速困ったことが起こりました。
バラの蕾にびっしり小さなアブラムシがついたのです。このままにしておいたら栄養分を吸い尽くされ花はきれいに咲かないだろうと考え、ビニールの手袋をはめて虫つぶし作戦を試みてみたのです。3回ほど行いました。木酢をかけたりもしてみました。

 すると何とかきれいなバラが咲き出したのです。とても嬉しい瞬間でした。いつものように道路沿いにピンクのバラが存在感を示しています。

 それにしても、私たちの身の回りのすべてのものを放射能によって汚染される事態は絶対に許されません。


2011・04・24 震災募金 

 3月11日午後2時46分に起きた東日本大震災。その時私は市役所2階の納税課で、相談者の国民健康保険料滞納金について、カウンター越しに交渉の最中でした。大きく揺れる中、お互い譲らずその交渉は続きました。午後3時に次の約束が控えていたので時間も忘れられません。

 県議選3週間前に発生した、戦後最悪の国難と言われる未曾有の大災害は、選挙運動の大きな軌道修正が求められました。

 私は、「まず自分たちに出来る救援活動を」との思いで、14日の朝から早速はるみ選挙事務所前で、救援募金活動を開始しました。どんな反応があるだろうかと少々不安でしたが、高校生が百円玉を入れてくれたり、バス停で降りた方が千円札を入れてくださったり、また、すぐ前のアパートの大学生は「自分の出身地も津波にやられ両親と連絡がとれない。募金をするべきか自分の生活費にとっておくべきか迷ってます。」と不安げな表情で訴えてこられました。こんな近くに被災地の方がいたのだと衝撃でした。

 この後、告示後の選挙の最中もずっと募金活動を続けました。
 選挙事務所に3万円、2万円、あるいは旅行を取りやめたからとその費用の半分の10万円も持ってきて下さる方もありました。告示後の街頭宣伝中に、春休み中の小学生達が、5人程10円玉を握りしめ駆け寄ってきてくれたり、家からお金を持ってきて募金して下さる市民の方が相次ぎました。事務所の「募金」の張り紙を見た高齢の女性が、お医者さんの帰りだと言って募金を持参してくれました。

 こうして日本共産党に託された募金が今、全国で4億6千万円(4/24現在)を超えました。被災自治体に届けて励ましています。ご協力下さった皆さん本当にありがとうございました。困難を乗り越え一歩ずつ前に進むよう頑張っていきましょう。


2011・03・17 禁煙  

 県庁は完全分煙となっていますが、議員控室と議員図書室内部の個室は喫煙自由でした(日本共産党控室は禁煙ですが)。以前に私が一般質問で禁煙問題を取り上げた時、この事を指摘しましたが、それは議会の問題なので、県庁を管轄している総務部は関知しないと言われました。

 しかし、市民団体から受動喫煙防止対策を講ずるよう請願が出され、これを議会が全会一致で採択したこともあり、控室と図書室を禁煙とし、廊下に喫煙者のために、性能の良いスウェーデン製の分煙装置を置くことになりました。しかし、それが大変高価なもので1年間で3台のリース料が400万円もすることが報じられ批判の声が高まり、その案は中止となりました。その後の話し合いで我が会派は、県庁はすべて敷地内禁煙にすべきと主張しましたが、結局当面倉庫として使われていた一室を議員のための喫煙室とすることになりました。

 昨年の十一月に県職員の健康を管理する産業医の仁平將先生が、県庁は完全禁煙にすべきと知事に「勧告」しました。ガンの発生率と喫煙率が最も高い青森県ですので、勧告を真摯に受け止め実行すべきではないでしょうか。ガンで命を落とす人が一人でも少なくなることを心から願っています。

2011・02・20 君子蘭

 毎日毎日楽しみにしていることがあります。君子蘭の花の生長ぶりを観ることです。白いろうそくの様な小さな花の芽が大きな葉の間から顔を出したのは三週間くらい前でしょうか。それから少しずつその花芽が伸びてきて白から黄緑、黄緑から緑へと変わります。四十センチほどに伸び、その先の小さな手のこぶしのような先から、まるで指をまっすぐ広げたように十個の花が開こうとしています。色は、オレンジ色に変わっています。

  この花、「アジサイだより」を見て相談に来られた女性から、昨年の秋譲り受けたものなのです。事情あって家を手放さなくてはならなくなり、君子蘭と共に狭いアパート住まいとなりました。「安藤さん一つ持っていって育ててくれないですか」。寝る場所がないほど部屋を占領していた君子蘭を引き取ってくれるよう頼まれ、わが家にきたものです。

 実は、わが家には他の君子蘭が幾鉢かあるのですが、真っ先に花芽が出たのはこの手塩にかけて育てられた君子蘭でした。その方と先日ある「語る会」でお会いし、開花宣言の報告をすることが出来ました。ほっとしながら、オレンジの花を見つめ心を癒しているところです。



 2011・01・23 誕生日

 今年の元旦は、五十九回目の誕生日でした。県議選を控えての元旦でしたので、それなりに忙しい一日でした。午前十時半から市会議員、高橋ちづ子衆議院議員と共に「さくら野」前で新年の訴えを行い、十二時からは市主催の新年互礼会に出席し、たくさんの方たちと挨拶を交わしました。その後、高橋ちづ子さんと二人で参拝客でにぎわう八幡宮、最勝院前で新年の訴えを行い、家路に着きました。

 この日、夫の研究室に在籍しているモンゴルからの留学生二人が訪れての楽しい一時を過ごしました。テーブルに並べたささやかなご馳走の中のにぎり寿司を見て「私たちは寿司を作るアルバイトをしています」と。暮れから新年にかけて、夜を徹して仕事だったとのことでした。「作る時に食べたいと思っていたお寿司を今日は食べられて幸せです」とおいしそうに食べてくれました。今では、作り方を後輩に教える腕前だそうです。異国で暮らす若者が日本人の食を支えながら、苦学しているたくましさにただただ感心しました。

 新しい年のスタートは、こうして元気良く、そしてさわやかな若者たちとの交流で出発しました。

 2010・12・19 豊かな実りを   

 今年6月、農家の方からの要請で弘前市内の水田の排水路や用水路の調査をしました。未整備のために、大雨で水が逆流し、稲が埋まってしまう様な状況でした。さてその際、余っていた苗を農家の方にいただきました。家で発泡スチロールに「田んぼ」を作り育ててきたのですが、適切な時期に排水しなかったために、秋になっても稲は小さな小さな米粒が少々実る程度でした。米作りの水の管理の難しさを実感させられました。加えて農漁業は天候にも大きく左右されるので大変です。

 今年は、特に陸奥湾のホタテが、海水温のかつてない上昇で大きな打撃を受け、養殖業者や加工業者、そして従業員が失業するなど多大な被害に遭いました。
 岩木の嶽きみも、暑い地域の虫が発生し例年の三分の一程の収穫量だったそうです。天候をくい止めることはむずかしいですが、農業を破壊するTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)参加は、何としてもくい止めなくてはなりません。日本の食料は日本の大地から。青森県の豊かな農林水産業をしっかり守っていきたいものです。



2010・11・21
 大きな支え  
 
 女性が子育てしながら議員を続けるというのは、家族の協力があって初めて可能なことです。四人の子がいる私の場合も、最初に市議会議員初当選した時は、長男が大学一年、一番下の子は小学校五年でした。まだ慣れない市議一期目の時に、夫の長期留学が続き、子どもたちの負担もきっと大きかったと思います。三男と四男の担任の先生から「寂しい様子です」と言われ、反省したことを覚えています。

 思春期に入ってからも色々ありました。でも、「子どもを信じる」姿勢は崩さないよう努力してきました。あれから市議三期・県議一期、計十六年が過ぎようとしています。十一月七日腕白坊主だった四男が結婚しました。彼の「ちょっと頼りないが優しい所」に惚れてくれた女性と人生を歩み始めたのです。母親としての思いを込めて、ピアノ演奏「愛の賛歌」で祝福しました。

 四兄弟素敵な姉や妹を加え、仲良く協力しあって豊かな人生を歩んでほしいと願っています。それが私の何よりの議員活動の大きな支えです。



2010・10・17
 津川武一生誕100年

 今年は、日本共産党に多大な貢献をされた故津川武一さんの生誕一〇〇年の年です。健生病院を創設した人でもあり、さまざまな企画が行われています。

 先般、元衆議院議員松本善明氏が「津川武一と太宰治」と題して講演されました。お話から津川武一と太宰治との共通点と相違点があることを知りました。共に旧制弘高を経て東大に進み、東大で社会運動に参加し、当時の治安維持法の下で逮捕された経験があったということ。戦後、津川武一氏は、日本共産党青森県委員会の再建に尽力し、その後県会議員・衆議院議員として国民の命を守る仕事を、医師としてばかりでなく議員としても頑張られた人であり、また文学者としても「生の文学」を数多く残した。一方太宰治氏は旧家に生まれ苦悩の中で「死の文学」を残し、若くして入水自殺し人生の終わりを遂げた、と話されました。

 戦前の地主制度や小作制度というそれぞれの「苦難」が二人の生き方を決定づけたのかも知れません。半世紀の時を経た今も「格差と貧困」の中で人々は苦しんでいます。真に人々が平等に幸せを享受できる時代を創るために、私も津川武一さんに学び頑張っていきたいと思います。


2010・9・13 「ゲゲゲの女房」

 朝の連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」は好感のもてる番組です。私もファンの一人で朝視聴できない時は録画して見ています。お見合い後結婚に至るまでの奇妙に急いだいきさつ、マンガが売れずに貧乏のどん底時代、売れっ子の超多忙時代、そしてスランプ、そこから這い上がる時代・・・と進んできています。何故好感がもてるのか。「ゲゲゲの女房」が苦しい時もいつも明るく楽天的で、そして悩んだときも自分を見つめる冷静さがある素敵な「女房」だからではないでしょうか。私たち夫婦も、若い時は本当に苦しい時代がありましたので、つらい時を乗り越えてきたということに共感も感じます。

 もう一つ私にとって、懐かしい場所が出てくるのも楽しみです。「深大寺」です。二十七歳まで東京で過ごした私は高校生の時に、この深大寺にある蕎麦屋でよくアルバイトをしました。深大寺の蕎麦は有名で、美味しいんですよ。この寺には犬猫の共同墓地もあり、小学生の時から実家で飼ったわが家の愛犬もそこに眠っています。私にとって「ゲゲゲの女房」がなおさら心に染みてくるわけがこんなところにもあるのかもしれません。


2010・8・8
 「トーフー♪♪」

 「トーフー」という音が町に響き渡ります。

 豆腐ラッパを鳴らしながら、水色の「いらっしゃいませ!」ののぼりを立てたリヤカーが弘前の町を練り歩いています。そのリヤカーの中には、特注の手作り豆腐や煮豆や身欠きニシンの和え物などのお総菜がぎっしり積み込まれています。朝から仕込んで売り始めるのは午後三時頃からとか。今、あちこちでそれまであったスーパーや商店がなくなり、バスやタクシーでリュックを背負って買い物に行かなければ、食料品も買えないという地域が増えています。

 大きなショッピングセンターができ、車が運転できればなんとかなりますが、車のない人たちにとっては本当に住みにくい町になっています。そこに出現した「豆腐ラッパのリヤカー移動店」。曜日によってコースがことなり、数日ぶりに来る「豆腐ラッパ屋さん」がどこでも、待たれているそうです。高齢者の方々にとっては本当に大助かりでしょうね。

 「豆腐ラッパ屋さん」もかつては失業し、はるみ事務所に相談に見えられた方でした。県の緊急雇用創出対策事業に応募し短期の仕事も経験されてきました。今、自らのアイデアでみんなに喜ばれる仕事を見いだし、元気な姿をお見かけする度に本当に良かったなと安堵しています。



2010・7・18
 選挙

 「歴史的な選挙」と位置づけて頑張った今度の参議院選挙でしたが、6年前得た4議席に届かず、3議席にとどまりました。応援してくださったお一人お一人に心から感謝致します。声を届ける私たちの活動が不足していた事も後退の一因でしょう。私自身も含め、活動家の皆さんも選挙ごとに歳を重ねていくことになり、思うような活動が出来なくなる方も生まれています。それでも、不自由な体を押して頑張る方々もあり頭が下がる思いでした。

 そんな中、若い人の頑張る姿も感動を呼びました。今回のよしまた洋候補者カーの専属アナウンサーをした弘前の20歳の女性です。よしまたさんと専属運転手さんと共に17日間の選挙戦を共に闘い抜いてくれました。透き通るようなきれいな声でよしまたさんと日本共産党の支持を青森県内をくまなく呼びかけてくれました。最後に弘前入りした日に「ご苦労様」とねぎらうと「みんなと別れるのが寂しい」と疲れも見せずに若々しい笑顔を見せてくれました。

 また、選挙中入党を決意してくださった方々やカンパをお寄せ下さった方も多数あり大変心強く感じています。
 一つ一つの選挙で悔いを残さない闘いをするためにも仲間の輪をさらに大きくして強い党をつくっていかなくてはとあらためて感じています。庭の紫陽花がしっとり咲いています。


2010・6・20
 「アカ」

 6月12日の演説会で、大門みきしさんは、「義理の母親が3年間寝たきりになり、『迷惑をかけた』といって亡くなった。かさむ医療費や介護費用を苦にしたのだろう、せめて子どもとお年寄りの医療費は無料にし、『迷惑』などと思わせない政治にしなければ」と訴えました。

 市田忠義さんは、自分を育てた母親が「こわい共産党にだけは入るな。アカにそまるな。」と繰り返し言い続けたそうですが、市田さんが共産党に入り活動する姿を見て、母親は息子がやっていることは悪いことではないと理解を示し、80歳で入党し「アカ」となり89歳で亡くなったと話されました。

 その話を聞いてなぜか涙が止まりませんでした。私も高校生の時に民主青年同盟の活動を始め、父親から、「アカに染まるな」と一度だけ殴られたことがありました。でも、間違ったことはしていないと20歳の時に入党し「赤」の道を歩んできました。

 その後、津軽に来て共産党の議員に立候補することになったとき父は「市民の幸せを誠実に訴えて頑張りなさい」と応援してくれました。父は「アカ」にはなりませんでしたが、良き理解者となって亡くなりました。

 兄夫婦と東京で暮らす86歳の母は、熱心な「赤旗日刊紙」の読者で、大の共産党ファンです。たくさんのファンを増やし、前進させる夏にしたいものです。


2010・5・23
 冠婚

 日々忙しい議員生活ですが、避けて通れないのが冠婚葬祭です。

 今回わが家に訪れてきたのは、喜ばしい「冠婚」の方でした。親として、30歳を過ぎ独り身でいた次男を案じていましたが、この度ゴールインしたのです。県外に暮らす二人ですが、相手は青森市出身ですので、弘前に来てささやかなパーティーを開きました。それぞれの親戚と友人・恩師に祝福される二人の幸せそうな表情に、親としてこの上ない喜びを感じました。共働きの二人には、楽なことばかりではないと思うのですが、支え合い協力しあって末永い「しあわせ」をつかんでほしいと思います。

 私は、余興でこれまで練習してきたピアノを披露させてもらいました。「渚のアデリーヌ」(ポール・ドゥ・センヌヴィル)「ノクターン」(ショパン)を何とか弾くことができて安堵しました。祝福の気持ちが音楽を通して伝わるといいなと思っています。五十の手習いで娘の頃習っていたピアノをいじっています。

 今回のイベントで、春の弘前を訪れた親戚が弘前はいい町だとみんな喜んで帰って行きました。二人の孫も成長した姿を見せてくれ、また86歳になる私の母も元気な姿で来てくれたのが何よりでした。

 自然と、政治談義にも花が咲きました。みんなが幸せになれる政治をめざし「がんばるぞ!」


2010・4・21
 立ち上がれ

 新党を作る動きが目立ちます。「立ち上がれ日本」という名の新党もできました。平均年齢69才とかで「たちがれ日本」と揶揄されています。消費税増税、憲法改悪などを政策にしています。国民の暮らしと平和を犠牲にする政治を行うために立ち上がるということなのでしょうか。

 「立ち上がれ」で最近の出来事を思い出しました。わが家の水槽で10センチくらいに育った一匹の金魚の「物語」です。

 ある日、水槽を眺めていると「あれ」と思うことがありました。いつもは、3匹いるはずの金魚が2匹しか見えません。水槽の周囲を探してみると、少し離れたところに置いてあった水槽を掃除する用具の入ったバケツの底にいるではありませんか。ぴくともしません。水槽から飛び跳ねた様です。土に埋める前に、最後の水を飲ませてあげようと皿に乗せて水を掛けてあげました。するとかすかに尾びれが動きだし、水を張ってあげると身体も動きだしたのです。びっくりです。

 「たちあがれ」「よみがえれ」とつぶやきながら小さな「命」が吹き返すよう祈りました。30分くらいして水槽に戻してあげるとよろよろしながら身体を必死に立て直し、なんと泳げるまでに「よみがえった」のです。ちいさな「命」に感動を覚えたひと時でした。

 悪い政治がよみがえるのは困りますが・・・。


2010・3・21 卒業式

 3月は卒業を迎える季節です。卒業を迎えた皆さん誰もが明日への希望をもって飛び立てることを心から願っています。しかし、就職を希望する皆さんにとっては例年になく厳しい年となっています。県でも、未就職者の方達のための研修制度をたちあげ、新しい就職につながるよう資格取得の支援をしたり、雇用の場を提供する事業者に有利な融資制度を立ち上げたりしています。

 この春3校の県立高校の卒業式に参加させて頂きました。卒業生の答辞は胸に迫るものがあります。弘前高校の卒業生代表は、産婦人科の女医として社会に貢献したいと、とても頼もしい決意を語られました。

 また、中央高校では全日制と定時制の代表が答辞を述べ、卒業への思いをそれぞれ率直に語っておられました。定時制の39歳の代表の男性は、高三で一度中退し中卒の資格で働いてきたが、一生懸命働いても賃金に差があること、さらに若くして障害が残る病気になり、悔し涙を何度も流してきたこと、しかし受験を迎える娘に勉強を教えられるようにと意を決して、この1年間、昼間は障害者職業訓練校に、夜は高校に通い、事務処理の資格を取り、この春再出発することになったそうです。妻や子ども、恩師らへの感謝を込めながらのお話に何度も涙をぬぐいました。

 改めて定時制高校の灯を消してはならないとの思いを強くしました。 


2010・2・13 太陽光発電

 風力・太陽光・海流・地熱などを利用して電気を起こす自然再生エネルギーが、地球の温暖化対策として注目されています。

 商工労働エネルギー委員会で青森県の取組について、特に家庭用として活用しやすい太陽光発電については、二度ほど取り上げてきました。

 国が導入促進に向け設置に対する補助を行ったり(八戸市・青森市・七戸町も実施)、青森県では、太陽光発電設備により発電し、自家消費した電力の「環境価値」について、グリーン電力証書として企業などに買い取ってもらう事業を進めています。また、家庭で使って余った分の電気を電力会社が買い取る価格を、これまでの二倍、1`ワット時当たり48円とする新制度も取り組まれています(この値上げ分を各家庭の電気料金に上乗せして徴収するという問題もあり)。

 こうした取組を生かし、全国で下から2番目という普及率の向上をと声を上げました。すると、長老議員からすかさず「安藤さんが設置すればいいでしょう」との野次が飛びました・・・・。

 十二月のある日、太陽光発電設備の会社の営業マンがわが家にやってきました。一瞬、長老議員の差し金かと思いましたがそうではありませんでした。結局促進を願う一人として、取りつけることになりまして、わが家も「自家発電所」としてスタートを切り、毎日発電量を見るのが楽しみになっているところです。


 2009・12・05 ホームレス 

 1ヶ月くらい前に、大町の(旧)ジョッパル前で朝の街頭からの訴えをしていた時のこと。30分ほどの訴えを終え片づけを始めると、終わるのを待っていたかのように近づいてきた男性がいました。

 話を聞くと「今年の初めに県外で派遣切りに合い、弘前に戻り、カプセルホテルに泊まりながら、ハローワークに通い続けてきたが、とうとう失業手当も切られ、生活の糧が途絶えてしまった。帰るところもなく、仕方なく公園等で寝泊まりしてきた」というのです。

 「仕事さえ見つかれば頑張りたいのだが、全く見通しが立たない」と訴えました。私の演説する姿を見て「困ったときには共産党に相談してみたら」と友達から言われていた事を思い出し、声をかけてきたのだそうです。

 早速アパートを探し、住居を確保し、生活保護申請をするお手伝いをしました。

 数週間後、無事生活保護も受理され、何とか落ち着いて暮らし始めたという知らせを受けほっとしました。「他にも、ホームレス結構いるんです」というので、「会うことがあったら私の名刺を渡して相談に来るように伝えて」と頼みました。

 北国の寒い夜空の下で過ごすのは苛酷すぎます。

 派遣労働法の改正を!失業者に生活支援を!雇用保険の拡充を! 


  2009・11・03 適齢期

 わが家には26歳から33歳までの息子が4人います。長男はすでに結婚し二人の子を持つ父親となりましたが、結婚適齢期のあとの子たちはどうなるのだろうと常に心配していました。

 それが、今年の正月彼女をつれてきた次男と四男が、それぞれめでたくゴールインの運びとなり、次男はすでに入籍をすませ、四男は来年の秋結婚式を挙げることになりました。
 それぞれの親御さん達と8月、9月にお会いし、嬉しいひとときを過ごしました。
 一生を共に生きていこうと約束し合えるパートナーに巡り会えたことに、親として心から「おめでとう」の祝福を送りたいと思います。

 次男・四男とも、懸命に仕事をしていますが、決して楽な道ではありません。一人の収入ではままならないでしょう。
 パートナーとの協力共同、そしていたわり合い、末永く幸せに生きてほしいと願っています。残る三男もがんばれ!
 若者が安心して、結婚・子育て出来る社会に。母親としての心からの願いです。


 2009・9・13 二人目の孫

 いつ総選挙になるかと言われ続けた衆議院選挙が、ほぼ任期満了近くまで引き延ばされ、初の真夏の選挙となりました。暑い地方に比べれば楽だったかも知れませんが、それでも日差しの強い日も多く体力勝負の闘いでした。

 自公政権を退場させようと熱い闘いがあったこの8月、わが家の二人目の孫が誕生しました。選挙中は会いに行くのはお預けで、選挙後、夫と一緒に会ってきました。小さな手を万歳してにぎやかな中でもスヤスヤ眠る弟を、お姉ちゃんになったもうすぐ四歳になる孫娘が、盛んに抱っこして見せてくれました。二人目は強くなる!そう実感しました。

 この子達の父親は、民主党のマニフェストの二万六千円の「子ども手当」がどうなるのか大変気になるようでした。二人目の出産で嫁が離職したため、経済的に「大黒柱」となった父親としては、気になるのは当然ですね。しかし、その財源に中学生以下の子どもがいない六十五歳未満の専業主婦世帯の配偶者控除や扶養控除を無くすというのですから、大きな問題が残ります。日本共産党は現在の児童手当を十八歳まで引き上げ五千円から一万円にするという公約をかかげて頑張ってきました。子どもを安心して育てられる社会は喫緊の課題です。


  2009・7・22 高校授業料

 弘前市内の私立学校の校長先生のお話です。不況で授業料滞納者が続出し、毎日のように親御さんに対し、分納で良いので納入して下さるよう説得の日々だそうです。滞納のため就職が内定していても卒業時に卒業証書を渡せない事もあるそうです。

 校長先生は、こんなことで毎日親御さんと面談しなければならない事が大変つらいと話されていました。そんな中でジーンとくるお話もありました。授業料の滞納があった卒業生が十年後にこつこつ貯めてお金を返しに来たというのです。その時、彼は「返すのがこんなに遅くなって本当にすみません」と言って先生の前で大泣きしたそうです。

 いよいよ総選挙です。親の収入によって子どもの学ぶ権利に差別があってはなりません。

 共産党は、「公立高校の授業料の減免対象枠を年収500万円まで広げ、私立高校は年収500万円以下の世帯は授業料全額免除に。国立大学・高専の減免枠を引き上げ、世帯年収400万円以下は全員授業料免除に。私立大学は、年収400万円以下の世帯を減額とする授業料直接助成制度をつくる。国の奨学金をすべて無利子に戻す。年収300万円に達するまでは返済猶予に。経済困難を抱える若者への給付制奨学金制度をつくる。」という公約を掲げています。

 誰もが安心して学ぶことができる政治を実現しましょう。


  2009・7・3 合同誕生会

 我が家は、私たち夫婦と四人の息子の六人家族でした。子どもたちがみんな家にいた子育て時代の誕生会は、それぞれの誕生月に合わせ、一月と五・六月組をまとめて年二回合同で行うのが常でした。張り切って手作りケーキをつくり、それなりのご馳走をつくって御祝いしたものでした。そんな子どもたちもみんな大人になり、家を離れ、それぞれの場所と方法で誕生日を祝ってもらっているようです。ただ、今でも帰省してきた息子達が正月に合同誕生会を続けてくれています。私の誕生日が元旦であり、帰ってきた息子達がいつも秘かにケーキを買い、プレゼントを用意し御祝いしてくれるのです。嬉しいですね。それに引き替え六月生まれの夫は、息子達がいなくなった今は合同誕生会は開かれず、妻は六月議会の最中で忙しく本人の申し出があるまで、忘れているという有様です。今年も同じでした。申し訳ない。しかし、指導している学生達が大学で誕生会をしてくれたそうで、満足げに帰宅してきました。


2009・5・27
 ロマントピア

 町会婦人部でロマントピア相馬に一泊する小旅行が先日あり、夕方から参加しました。温泉には何度も入りに来たことがありましたが、泊まったのは初めてでした。車でロマントピアに着くと新緑が美しく気分爽快でした。
 ここに泊まって感激したことが2つありました。1つは、まだ外が明るい時間に温泉に入った時、露天風呂から見えた岩木山がど−んと大きく素晴らしい景観だったことです。今まで夜にしか来たことがなかったので気がつきませんでした。
 もう一つは、夕飯をとった食堂の女性たちの笑顔がとてもすてきで気持ちがよかったことと、お料理が美味しく、大きなちらし寿司やダイナミックなビフテキのお替わりサービスがあったことです。そうたくさん食べられるわけでもないのに、何だかその気前よさを見ただけで満腹になりました。大食いの息子達を連れてきたら大喜びするだろうなと思ってみたりしていました。このコースは期間限定の様ですので要注意。
 夜は、大先輩の方々と夜遅くまで語り合い、修学旅行の様でした。さすが大先輩だけあって、朝は超早起きで、つられて目覚め朝風呂にゆっくり浸かってきました。
 朝の岩木山は頂上がかくれていたものの、露天風呂に入りながら目にした姿に大満足でした。


 2009・4・19 東京マラソン

 先日「東京マラソン」で、42.195キロのフルマラソンを完走したとの次男からの知らせに 「やったーすごい」の歓声をあげました。練習中に、身体の調子をくずしたとも聞いており、無理しなければいいのだがと心配していたので、無事完走の知らせにほっとしました。
 中学生の時は野球に打ち込み仲間と共に東北大会まで行き、そして高校生時代、陸上部でやり投げ選手として活躍し、東北大会に出場した彼は、高校1年の夏休みには自転車で東京に3泊4日で到着。2年の夏休みには、日本海側ルートを南下し、信州経由で東京まで自転車で行くという体験もしました。私が初めて市会議員に立候補した時期と重なり宣伝カーの中で「どうしているかな」と心配したことを思い出します。そんな彼が大学では「スポーツ科学」を学び、その後色々な仕事を体験し早30歳となりました。今また新たな道を歩み出そうとしています。
 3歳から18歳まで弘前で過ごした彼は、故郷「津軽」が大好きで、インターネットを介して「リンゴ会」を組織し、楽しく仲間の輪が広がっているようです。その中で、ひょう害りんごの販売の呼びかけもしてくれました。岩木山の姿を紹介し合うコーナーも立ち上げ、県外にいても津軽の景色を堪能しあっているようです。
 人生も「フルマラソン」の様に、困難にめげずねばり強く頑張ってほしいと思っています。


 2009・3・26
 津軽に住む喜び

 青森までの行き帰りの運転も最近ではだいぶ慣れてきました。10分の短縮となるため高速道路を使うこともあります。黒石から乗るのですが、青森までの950円はちょっと痛いです。でも高速から左手に見える岩木山は素敵です。「おっとあぶない」。ちらっと見るだけです。
 さて、高速道路ばかりではなく国道7号線を走っての最大の喜びは飛んでいる白鳥の群に出会うことです。「わあ、素敵!」と思わず叫んでいます。飛ぶ練習でしょうか、あるいは餌を探しにいった帰りでしょうか、二,三羽が連なって飛んでいる時もありますし、いよいよシベリアへの旅立ちなのか、かぎ形に並んで十数羽が空に消えていくこともあります。こんな姿を目にした時、この土地に住む喜びをひしひしと感じます。そして疲れも吹き飛んで行きます。 


 2009・2・28
 部屋の花々

 春から秋にかけて外の光をたっぷり浴びた観葉植物たちが、我が家の室内に所狭しと並んでいます。二階では、息子のかつての勉強机が植物たちの住みかです。冬の初めに見事な花を付けたのが、二種類のシャコバサボテン。その次に花開いたのが、デンドロビウム。実家から10年程前に10センチ程のをもらって育て、今では倍くらいに成長しました。知人から頂いたカトレアは、今年も律儀にきれいな花を着け、その横で一つの鉢で育てた白とピンクのアザレアの花も咲き出しました。一階の居間では、友人から頂いたフィロデンドロンが大きな葉っぱを広げて、いい雰囲気を作り、二種類のシンビジウムが素敵な花を咲かせてくれました。面白いのは、5センチくらいのミニ植物として買ったアレカヤシが60センチ程に成長し、昨年に続きごま粒のような緑色の花を着けたことです。たくさんの葉っぱや花が私の心の安定剤となっています。